平成心学塾 経営篇 人は、かならず「心」で動く #135

「笑のマネジメント」~ウィットで雰囲気を和ませる

 

笑顔は世界共通のコミュニケーションの「かたち」である。
わが社には経営理念の一つとして、「スマイル・トゥー・マンカインド~すべての人に笑顔を」というものがある。わが社のような「ホスピタリティ」すなわち「親切な思いやり」というものを提供する接客サービス業においては、笑顔・挨拶・お辞儀といったスキルが非常に大切となる。中でも特に笑顔が必要であるといえるだろう。サービスの現場だけではない。営業においても、明るい笑顔でお客様に接するのと暗い無表情で接するのとでは雲泥の差があり、それは確実に成果の差となって出てくる。
マンカインドとは、すなわち人類であり、すべての人という意味である。すべての人は、私たちのお客様になりえる。ぜひ、お客様のみならず、取引業者の方や社内の人たち、部下や後輩にも笑顔で接していただきたいと社員の皆さんにお願いしている。
かつて、クレイジーキャッツの「日本全国ゴマスリ行進曲」という歌で、ゴマスリは手間もかからないし元手もいらないので、「大いにゴマをすろう!」というような内容で、亡くなった植木等さんが歌っていた。笑顔もまた、手間もかからず、元手もいらない。ゴマスリなどする必要はないが、そのかわりに笑顔を心がけたいものである。これほど安上がりで効果が高いサービス業のスキルは他に存在せず、まさに最高のコスト・パフォーマンスと言えるだろう。
笑顔は、サービス業においてだけでなく、ありとあらゆるすべての人間関係に大きな好影響を与える。国籍も民族も超えた、まさに世界共通語、それが笑顔なのである。また、性別や年齢や職業など、人間を区別するすべてのものを超越してしまう。
「すべての人に笑顔を」は、「人間尊重」そのものなのだ。笑顔のない組織に潤いはなく、殺伐とした非人間的な集団にすぎない。そんな会社は、ハートレス・カンパニーであり、ハートフル・カンパニーには笑顔が溢れている。笑顔のもとに人は集まることは不変の真理である。
笑顔など見せる気にならないときは、無理にでも笑ってみせることである。アメリカの心理学者ウイリアム・ジェイムズによれば、動作は感情に従って起こるように見えるが、実際は、動作と感情は並行するものであるという。だから、快活さを失った場合には、いかにも快活そうにふるまうことが、それを取り戻す最高の方法なのである。不愉快なときにこそ、愉快そうに笑ってみることが大切だ。
「笑う門には福来たる」という言葉があるように、「笑い」は「幸福」に通じます。笑いとは一種の気の転換技術であり、笑うことによって陰気を陽気に、弱気を強気に、そして絶望を希望に変えるのである。さらに、地上を喜びの笑いに満たすことが政治や経済や宗教の究極の理想ではないだろうか。「笑い」のない宗教も哲学もどこかいびつで、かたよっているように思う。
実際、ソクラテスはよく笑ったし、老子もよく笑った。如来もそうだし、ブッダもしかりである。さらには、孔子もよく笑っていたと想像される。『論語』の中には、孔子が弟子をからかってみたり、冗談を言ってみたり、非常に和やかなムードが満ちているのである。おそらく孔子教団には笑いが絶えなかったのではないだろうか。ちなみに、ドラッカーもユーモアにあふれた人で、よく笑ったそうである。
わが社の経営理念の一つに「スマイル・トゥー・マンカインド」を入れたとき、営業や冠婚部門に笑顔が必要なのは当然だが、葬祭部門には関係ないのではと思った人がいたようだ。しかし、それは誤った認識である。仏像は、みな穏やかに微笑んでいる。これは優しい穏やかな微笑みが、人間の苦悩や悲しみを癒す力を持っていることを表している。葬儀だからといって、暗いしかめ面をする必要などまったくないのである。わが会社のセレモニーホールの「お客様アンケート」を読むと、「担当の方の笑顔に癒されました」とか、「担当者のスマイルに救われた」などの感想が非常に多い。これは大変嬉しいことだ。もちろん、葬儀の場で大声で笑ったり、ニタニタすることは非常識だが、おだやかな微笑は必要ではないかと思う。
会社内においても、笑いは必要である。特に、ユーモアは組織の雰囲気を和ませる。「ユーモア」の語源であるラテン語の「フモール」という言葉は、元来、液体とか液汁、流動体を意味するものであり、みずみずしさ、快活さ、精神的喜びなどを連想させる。
ちょっと意外だが、「謹厳実直」のイメージそのものである吉田松陰という人はユーモアのセンスにあふれていたという。たとえば、野山獄に投じられた松陰に、兄が果物を差し入れてくれたことがあった。兄の添え状には、その数が九個と書かれていたが、実際に数えてみたら十個あった。そこで松陰は「その実十あり、道にて子を生みにしか」と返事に記したという。途中で果物が子どもを生んだのではないかというユーモアである。
また、松下村塾の増築工事が行なわれた時のこと。弟子の品川弥二郎が梯子に上り、壁土を塗っていたが、あやまって土を落とし、それが松陰の顔面を直撃するというアクシデントがあった。当然ながら、弥二郎は恐縮して謝った。そのとき松陰は、「弥二よ、師の顔にあまり泥を塗るものでない」と呼びかけて、周囲のみんなを笑わせたそうである。
ときには議論が白熱する松下村塾にあって、ギャグは欠かせなかったのだろう、と萩博物館高杉晋作資料室室長の一坂太郎氏は推測している。議論を戦わせ対立すると、どうしても険悪な雰囲気が生まれることだってある。そんなとき、さりげなく、邪魔にならない程度のギャグが出ると、雰囲気は和む。松陰にとってギャグとは、そんなガス抜きの意味があったのだ。