平成心学塾 経営篇 人は、かならず「心」で動く #139

「茶のマネジメント」~平等を実現する、良き人間関係のシンボル

 

新茶の季節には、いつも静岡茶や八女茶や知覧茶が届く。緑茶はおいしくて、健康にもよいことで知られる。しかし、茶というのはもっともっと奥が深く、素晴らしいものである。ずばり、茶は、人間を平等にするのである。まず、茶の平等性は貧富を超える。貧しい暮らしの人が冷えた食べ物を食べる場合でも、茶と一緒に取れば、温かい食事をしているような気になれた。どれほど多くの貧しく人生に絶望しているような人々が一杯の温かい茶によって、心やすらぐひとときを持つことができたことであろう!
それというのも、日本でも中国でもイギリスでも、茶は水の次に安い飲み物であり続けたからである。
日本においては、茶は安いどころか無料で提供される水以外の唯一の飲み物である。寿司屋でも蕎麦屋でも日本料理店でも、店に入ると一杯の茶が出される。もちろん無料であり、いくらおかわりしてもタダ。煎茶であれ番茶であれ、茶葉を購入するわけですから何かしらのコストがかかっているわけで、考えてみれば不思議な話だ。すべてのモノやサービスが商品化される資本主義社会において、無償で提供されるお茶。商品の試供品であれば、話は別である。
日本はお茶の国だからお代を頂くほどのものではない、ではすまない。だとしたら、ブラジルはコーヒーの国だからブラジルのレストランでは、コーヒーがタダで出てくるのだろうか?
わたしは、この無料で万人に茶が出されるということに、仏教における「慈悲」をいつも重ねます。もちろん、茶の文化は仏教の禅から生まれたが、わたしは仏教と茶の本質は似ていると思っている。
日本人の心は、なんといっても、神道、仏教、儒教の3つの宗教によって形づくられてきた。3つの宗教は混ざり合い、武士道や心学や冠婚葬祭といった偉大な文化を生み出してきたが、その源流ははるか聖徳太子に行き着く。憲法十七条や冠位十二階の制定で聖徳太子が企てたもの、それは神仏儒によって日本という国を平和に治める「和」をコンセプトにした政策であった。そこで、神道は「自然と人間との循環」仏教は「人心の内的安定」、儒教は「社会の秩序維持」というテーマを与えられ、その後の日本人の「心のかたち」を決定づけたのである。その中で仏教が果たした「人心の内的安定」という役割は、そのまま茶という飲み物にも当てはまるのではないだろうか。
さらに、茶室というものの存在を無視できない。日本における茶の文化は、「茶道」として芸術の域にまで高められた。茶道は単に一定の作法で茶を点て、それを一定の作法で飲むだけのものではない。実際は、宗教や哲学、茶道具や茶室に置く美術品など、幅広い知識や感性が必要とされる非常に奥深い総合芸術なのである。茶室の文化を完成させたのは、かの千利休だ。前衛芸術家としての利休は、偉大な心理学者であり、一流の空間プランナーでもあった。
茶室には、露地、中門、飛石、蹲踞(つくばい)、躙口(にじりぐち)といった、利休が張りめぐらせたさまざまな仕掛けを見つけることができる。そこでは天下人も富豪も、他の人々と同じ歩幅で敷石を踏み、必ず頭を下げなければ中には入ることができなかった。中に入った後も、狭い空間ゆえに互いに正座して身を寄せ合わなければならない。そして、身分の別なく全員が一碗の茶を廻し飲みする。茶室では、すべての人間が平等となるのである。
茶で「もてなす」とは何か。それは、最高のおいしいお茶を提供し、最高の礼儀をつくして相手を尊重し、心から最高の敬意を表することに尽きる。そして、そこに「一期一会」という究極の人間関係が浮かび上がってくる。人との出会いを一生に一度のものと思い、相手に対し最善を尽くしながら茶を点てることを「一期一会」と最初に呼んだのは、利休の弟子である山上宗二であった。「一期一会」こそは、利休が生み出した「和敬静寂」の精神とともに、日本が世界に誇るべきハートフル・フィロソフィーであると言えるであろう。
家庭においてもリビングルームはあっても、いわゆる「茶の間」が消えつつあると言われている。日本の茶の間とは、母親が入れてくれたお茶を飲みながら、家族が互いを思いやり、気づかい、いたわり、何よりも家族がつながり合う空間であった。家族という共同体がドロドロと溶けてゆく中で、今こそ茶の間の復活が必要なのではないだろうか。このように、茶室における「もてなし」の茶にしろ、茶の間における「つながり」の茶にしろ、茶とは良い人間関係づくりというものに徹底的に関わっているのである。