平成心学塾 経営篇 人は、かならず「心」で動く #016

「善のマネジメント」〜人間は善なる存在である

 

 中村天風は、「善」とは偏りのない愛情であると喝破した。世の人々にも愛情はあるのだけれども。それは偏った愛情である。すなわち、家族とか身内とか自分の気に入ったものだけ可愛がって、気に入らないものは可愛がらない。それは本当の愛情ではない。太陽の光線は、美人の顔も照らせば、犬の糞も照らしている。普遍的な愛情こそ善である。
孟子は、人間誰しも、あわれみの心を持っていると述べた。幼い子どもがヨチヨチと井戸に近づいて行くのを見かけたとする。誰でもハッとして、井戸に落ちたらかわいそうだと思う。救ってやろうと思う。それは別に、子どもを救った縁でその親と近づきになりたいと思ったためではない。村人や友人にほめてもらうためでもない。また、救わなければ非難されることが怖いためでもない。してみると、かわいそうだと思う心は、人間誰しも備えているものだ。さらに、悪を恥じ憎む心、譲りあいの心、善悪を判断する心も、人間なら誰にも備わっているものだ。
かわいそうだと思う心は「仁」の芽生えである。悪を恥じ憎む心は「義」の芽生えである。譲りあいの心は「礼」の芽生えである。
善悪を判断する心は「智」の芽生えである。人間は生まれながら手足を4本持っているように、この4つの芽生えを備えているのだ。
あまりにも有名な性善説の根拠となった四端の説である。孟子は「人間の本性は善きものだ」という揺るぎない信念を持っていた。
人間の本性は善であるのか、悪であるのか。これに関しては古来、2つの陣営に分かれている。東洋においては、孔子や孟子の儒家が説く性善説と、管仲や韓非子の法家が説く性悪説が古典的な対立を示している。西洋においても、ソクラテスやルソーが基本的に性善説の立場に立ったが、ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も断固たる性悪説であり、フロイトは性悪説を強化した。そして、共産主義をふくめてすべての近代的独裁主義は、性悪説に基づく。毛沢東が、文化大革命で孔子や孟子の本を焼かせた事実からもわかるように、性悪説を奉ずる独裁者にとって、性善説は人民をまどわす危険思想であったのだ。
独裁主義国家の相次ぐ崩壊や凋落を見ても、性悪説に立つマネジメントが間違っていることは明らかである。マネジメントとは何よりも、人間を信じる営みであるはずだ。しかし、お人好しの善人だけでは組織は滅びる。一人でも悪党というのは、悪人はみな団結性を持っている。彼らに立ち向かうためには、悪に染まらず、悪を知る。そしてその上手をいく知恵を出すことが求められるのである。