孝
「孝のマネジメント」〜人が死なないための大発明とは
私は、孔子とドラッカーの二人をこよなくリスペクトしている。不惑の年である40歳の誕生日を迎えるに当たり、「不惑」という語が由来する『論語』を40回読み直し、以後も誕生日を迎えるたびに読んでいる。ドラッカーの多くの著書には社長になってから触れたのだが、そのすべてを精読し、最新作の『ネクスト・ソサエテイ』に至ってはアンサーブックまで上梓した。それが『ハートフル・ソサエテイ』である。
仁義礼智忠信孝悌といったさまざまな徳目を発見した孔子という人間通、「目標管理」「選択と集中」「コア・コンピタンス」などマネジメントにおけるほとんどの概念を発明したドラッカーという経営通、ともに人類史に残るスーパー・コンセプターであり、私は自分なりの解釈で彼らの残してくれたコンセプトを会社経営に活かしているつもりだ。
孔子とドラッカーには「知」の重視、「人間尊重」の精神など、共通点がいくつもあるが、私が最も注目しているのは二人の「死」のとらえ方である。正確には「不死」のとらえ方と言った方がいいかもしれない。
孔子が開いた儒教における「孝」は、「生命の連続」という観念を生み出した。日本における儒教研究の第一人者である大阪大学名誉教授の加地伸行氏の名著『儒教とは何か』(中公新書)、『沈黙の宗教 儒教』(ちくまライブラリー)などによれば、祖先祭祀とは、祖先の存在を確認することであり、祖先があるということは、祖先から自分に至るまで確実に生命が続いてきたということになる。また、自分という個体は死によってやむをえず消滅するけれども、もし子孫があれば、自分の生命は存続していくことになる。私たちは個体ではなく一つの生命として、過去も現在も未来も、一緒に生きるわけである。つまり、人は死ななくなるわけだ!
加地氏によれば、「遺体」という言葉の元来の意味は、死んだ体ではなくて、文字通り「遺した体」であるという。つまり本当の遺体とは、自分がこの世に遺していった身体、すなわち子なのである。親から子へ、先祖から子孫へ、孝というコンセプトは、DNAにも通じる壮大な生命の連続ということなのだ。孔子はこのことに気づいていたのだが、2500年後の日本人である加地伸行氏が「孝」の真髄を再発見したわけである。
一方、ドラッカーには『会社という概念』(最近、『企業とは何か』の題名で新訳が出た)という初期の名著があるが、まさにこの「会社」という概念も「生命の連続」に通じる。世界中のエクセレント・カンパニー、ビジョナリー・カンパニー、そしてミショナリー・カンパニーというものには、いずれも創業者の精神が生きている。エディソンや豊田佐吉やマリオットやデイズニーやウォルマートの身体はこの世から消滅しても、志や経営理念という彼らの心は会社の中に綿々と生き続けているのである。
重要なことは、会社とは血液で継承するものではないということだ。思想で継承すべきものである。創業者の精神や考え方をよく学んで理解すれば、血のつながりなどなくても後継者になりうる。むしろ創業者の思想を身にしみて理解し、指導者としての能力を持った人間が後継となったとき、その会社も関係者も最も良い状況を迎えられるのであろう。
逆に言えば、超一流企業とは創業者の思想をいまも培養して保存に成功しているからこそ、繁栄し続け、名声を得ているのではないだろうか。
孝も会社も、人間が本当の意味で死なないために、その心を残す器として発明されたものではなかったかと私は思っている。ここで孔子とドラッカーはくっきりと一本の糸でつながってくるが、最近、安岡正篤もこれに気づいていたことを知った。安岡はドラッカーの“The age of discontinuity”という書物が『断絶の時代』のタイトルで翻訳出版されたとき、「断絶」という訳語はおかしい、本当は「疎隔」と訳すべきであるけれども、強調すれば「断絶」と言っても仕方ないような現代であると述べている。そして安岡は、その疎隔・断絶とは正反対の連続・統一を表わす文字こそ「孝」であると明言しているのだ。老、すなわち先輩・長者と、子、すなわち後進の若い者とが断絶することなく、連続して一つに結ぶのである。そこから孝という字ができ上がった。そうして先輩・長者の一番代表的なものは親であるから、親子の連続・統一を表わすことに主として用いられるようになったのである。
安岡は言う。人間が親子・老少、先輩・後輩の連続・統一を失って疎隔・断絶すると、どうなるか。個人の繁栄はもちろんのこと、国家や民族の進歩・発展もなくなってしまう。
革命のようなものでも、その成功と失敗は一にここにかかっている。わが国の明治維新は人類の革命史における大成功例とされている。それはロシアや中国での革命と比較するとよくわかるが、その明治維新はなぜ成功したのだろうか。
その理由の第一は、先輩・長者と青年・子弟とがあらゆる面で密接に結びついたということである。人間的にも、思想・学問・教養という点においても、堅く結ばれている。徳川三百年の間に、儒教・仏教・神道・国学とさまざまな学問が盛んに行なわれ、またそれに伴う人物がそれぞれ鍛え合っていたところに、西洋の科学文明、学問、技術が入ってきたために、両者がうまく結びついて、あのような偉大な革命が成立したのである。
これこそ孝の真髄であり、すべてのマネジメントに通用するものだ。疎隔・断絶ばかりで連続・統一のない会社や組織に、イノベーションの成功などありえないのである。