平成心学塾 経営篇 人は、かならず「心」で動く #004

「礼のマネジメント」〜人としてふみおこなうべき道を守る

 

「礼」は儒教の真髄ともいえる思想である。それは、後世、儒教が「礼教」と称されたことからもわかる。そもそも礼(禮)という字は、「示」(神)と「豊」(酒を入れた器)から成るように、酒器を神に供える宗教的な儀式を意味する。古代には、神のような神秘力のあるものに対する禁忌の観念があったので、きちんと定まった手続きや儀礼が必要とされた。これが、礼の起源であるといわれる。
こうした礼の観念が変質し、拡大していくのは、春秋・戦国時代からである。礼の宗教性は希薄となり、もっぱら人間が社会で生きていくうえで守るべき規範、つまり社会的な儀礼として、礼は重んじられるようになる。『論語』にも礼への言及は多く、このことからも孔子の時代には、礼は儒家を中心によく学ばれていたことがわかる。そして、もともとの礼である「集団の礼」や「社会的な礼」とともに、徳の一つとして「個人的な礼」も実践されるようになる。孔子の門人たちにとって、礼を修得しなければ教養人として自立したことにはならないとされ、冠婚葬祭などのそれぞれの状況における立ち居ふるまいも重要視されるようになったのである。
いずれにしろ、孔子にはじまる儒家は礼の思想にもとづく秩序ある社会の実現をめざしていた。互いに礼をするということが少なくなってくることは、社会学的に考えても大問題であると述べたのは安岡正篤である。人間はなぜ礼をするのか。それにはいい答があると安岡は言う。
「吾によって汝を礼す。汝によって吾を礼す」
これは互いがお辞儀をする説明として、最も簡にして要を得た言葉である。自分というものを通じて相手を、人を礼する。その人を通じて自分を礼する。互いに相礼する。つまり、人間たる敬意を表し合うのである。安岡は「本当の人間尊重は礼をすることだ。お互いに礼をする、すべてはそこから始まるのでなければならない。お互いに狎れ、お互いに侮り、お互いに軽んじて、何が人間尊重であるか」と喝破する。
「経営の神様」といわれた松下幸之助も、何より礼を重んじた。彼は、世界中すべての国民民族が、言葉は違うがみな同じように礼を言い、挨拶をすることを不思議に思いながらも、それを人間としての自然の姿、人間的行為であるとした。すなわち礼とは「人の道」であるとしたのだ。そもそも無限といってよいほどの生命の中から人間として誕生したこと、そして万物の存在のおかげで自分が生きていることを思うところから、おのずと感謝の気持ち、「礼」の身持ちを持たなければならないと人間は感じたのではないかと松下は推測する。
ところが、最近になってその人間的行為である「礼」が、なにやら実際には行なわれなくなってきた。挨拶もしなければ、感謝もしない。価値観の多様化のせいか。だが、礼は価値観がどんなに変わろうが、人の道、「人間の証明」である。それにもかかわらず、お礼は言いたくない、挨拶はしたくないという者がいる。礼とは、そのような好みの問題ではない。自分が人間であることを表明するか、猿であるかを表明する、きわめて重要な行為なのである。
ましてや経営や組織で一つの目的に向かって共同作業をするとすれば、当然、その経営、組織の中で互いに礼を尽くさなければならない。挨拶ができないとか、感謝の意を表わすことができないというのであれば、その社員は猿に等しいと言える。
経営者も社員に対して礼の心を持たなければならない。自身が範を示さず、社員に礼を求めるばかりでは指導者としての資格はない。要するに経営者も社員も「人間」であるかぎり、互いに人間的行為、すなわち礼を尽くさなければならないということだ。
さらに、お客様に対する礼は、人間としての最高の礼を示さなければならない。お客様の存在によって経営は成り立ち、社員は生活できることを考えれば、経営者も社員もお客様に対して「最高、最善の礼」を尽くすことは当然である。松下幸之助は「生産者は、いい物を安く作るのが人類への礼というものだろう」とまで言っている。松下のすぐ近くで長く仕えたPHP研究所社長の江口克彦氏は、なぜ松下が経営において成功したのかについて、この「礼」を自らも徹底し、社員にも強く求めたことが重要な成功理由の一つであるとしている。
私が経営する会社においても「礼」をすべての基本とし、大ミッションには「人間尊重」を掲げている。もともと冠婚葬祭を業とする会社であるから当然といえば当然だが、さらに創業者である会長が小笠原流礼法の伝統を受け継ぐ「実践礼道・小笠原流」の宗家であり、挨拶・お辞儀・電話の応対・お茶出し・お見送りにいたるまで、社員へのマナー教育は徹底に徹底を重ねている。
人間のコミュニケーションの中で、礼儀正しさほど、人と交換しやすいものはない。それを他人に差し出せば、必ず返ってくるのだ。そして相手の気持ちを良くするのだ。また、相手に自分は重要な人間なのだという気持ちを起こさせる。失礼に扱われることほど人間のプライドをひどく傷つけるものはなく、相手に接するとき礼を失すれば、相手の攻撃心と敵意を引き起こすことになる。逆に、礼儀正しく接すれば、攻撃心や敵意など生まれるはずもない。考えてみると、礼法とは最強の護身術なのである。