智
「智のマネジメント」〜知識よりも智慧によって自己を知る
「知」と「智」はよく混同されるが、違う。儒教では、「知」とは「自分の知っていることと、知らないこととの区別」を知ることであり、「智」とは「善悪の区別」を知ることだとされる。
マネジメント大国であるアメリカでも日本でも、知識を重視する「ナレッジ・マネジメント」がもてはやされている。しかし、経営にとって真に重要なものは智慧である。
智慧とは単なる知識ではない。人間とか、自己とか、社会とか、神とか、そういったものを心で悟る、そういうものに心が通じる―これを智慧という。心が開けるともいう。頭の先の理解や記憶、また想像といった働きであり、しょせん知能というようなものではない。安岡正篤は、これが人間に一番大事なことであると述べた。
人間にとっての根本は、私たちが何を為すかということではなくて、私たちが何であるかを発見することである。
これは東洋に限らず西洋も同じであり、西洋でもこれを解明した哲学者は多い。
how to do good(如何に善を為すか)ということよりも、how to be good(如何に善であるか)のほうが大事であるとの名高い言葉がある。
人間の第一義は、何をするかということではなく、何であるかということなのだ。
もっと平たく言うと、例えばつまらない人間でも、いろいろ財産や地位ができてきたというと、すぐ調子に乗って自分は偉いと思うものだが、こんなものは決して偉くもなければ、価値のあることでもない。むしろ世の中には、財産や地位を作るためにあられもない汚いことや、ずるいことをやる者が多い。だから昔から「金持ちと灰皿はたまるほど汚い」と言うのだ。
地位にしても、つまらない競争をしたり、人を押しのけたり、陥れたり、いろいろやって出世する場合が多い。これは人間としては少しも偉いことではない。たとえ社会的に偉くても、人間としてはむしろ恥ずべきことである。何を為すか、何をしたかということと、彼はどういう人間か、如何にあるかということとは別である。
運に恵まれなければ、また本人が欲しなければ、本質的に立派な人でも、別に何もしないで終わることもある。安岡正篤は陽明学の先達である熊沢蕃山の「自分は世の中に何も迹を残さず、名も残さずに終わりたいものだ」という晩年の言葉に、大いに共鳴すると、著書『人生をひらく活学』で述べている。人間はつまらぬ者や、ピントの外れた者から褒められたり、持ち上げられたりしても、少しも嬉しくない。むしろ迷惑である。世間には苦笑いをするような褒め方をする人もよくいるが、かえって嫌なものである。蕃山のようになると、誹られても、褒められても、さぞかしつまらなかったことだろうと、安岡は推測する。
「如何に善を為すか」ということは案外当てにならぬものであり、大事なことはやはり「自分はどういう人間であるか」ということなのだ。
それを明らかにすることを「明明徳」(明徳を明らかにする)という。
蕃山はそれに気がついた。今まで自分で自分がわからなかったが、人生や宇宙というものがまったく暗黒であったが、たまたま学問をすることによって、ちょうど朝の陽光がさして万象が現れてくるのと同じように、蕃山は初めてはっと眼を開いた。これが彼の学問の始まりであり、またその追究が彼の生涯の学問であったわけである。
すなわち蕃山は明徳の学問をした。そしてこの明徳の学において、江戸の当時最も活発で、真実・純真なものを陽明学に見いだし、またその学問の偉大な人を中江藤樹において発見したのである。中国の明代に生まれた王陽明の学問は、別名「心学」と呼ばれる。あくまでも「知」を求めた朱子学に対して、「知行合一」を高らかに唱えた陽明の学問こそ「智」そのものに向かっていたと言えよう。
そして日本に入ってからは、中江藤樹、熊沢蕃山をはじめ、山鹿素行、「忠臣蔵」で有名な浅野内匠頭長直や大石内蔵助良雄、さらには大塩平八郎、春日潜庵、河井継之助、玉木文之進、吉田松陰、西郷隆盛、乃木希典といった巨大な精神の山脈を作りあげていったのである。
当然ながら、数多くの宰相や大実業家を指導した昭和の碩学・安岡正篤もここに位置する。
その安岡はこう言う―。
現代人は単に知性によって物を知ることしか知らぬ者が多い。そして、そういう知識の体系を重んじ、知識理論を誇る。しかし、そういう知識理論は誰でも習得し利用することができる。その人間の人物や心境の如何にかかわらず、どんな理論でも自由に立てることができる。つまらない人間でも大層なことが言える。どこを押したらそんな音が出るかと思われるようなことも主張することができる。そういうものは真の智ということはできない。
真の智は物自体から発する光でなければならない。これを「悟る」という。したがって「悟らせる」「教える」の真義は、頭のなかに記憶したり、紙の上に書きつけたものを伝達することではない。活きた人格と人格との接触や触発をいうのであり、撃石火の如く、閃光にひとしい。これを覿面提示と呼ぶが、これを得て、初めて真の活き活きとした人物ができるのである。つまり、全生命を打ち込んで学問する、身体で学問する。すると、人間が叡智そのものになる。
学問を仕事や経営と言い換えてもかまわない。仕事や経営に全生命を打ち込めば、己自身が光を発し、真の智が得られる。そして、真の智によって「自分はどういう人間であるか」を知った者とは、もはや人間通など超越した叡智そのものなのである。