涙
「涙のマネジメント」~巨大な感情量が人を動かす
私は非常に涙もろい。感動する話を聞いても、悲しい映画を観ても、涙が溢れ出る。
社員の頑張りや仕事への熱い想いなどに触れたときにも、涙腺がよくゆるむ。でも、私の涙に気づいた社員は、何か悪いものでも見たかのようにあわてて目をそらすことが多い。おそらく、「社長ともあろう者が、泣くなんて」と驚いているのだろう。一般に大人の男は涙など流すものではないとされている。
しかし、昔の武士などはよく泣いたようだ。武田信玄の『甲陽軍艦』には、「たけき武士は、いづれも涙もろし」とある。戦に勝ったといっては泣き、仲間が生き残っていたといっては泣いたようだ。偽りや飾りのきかない、掛け値なしの実力稼業。それは、情緒、感動においてもむきだしのあるがままに生きることだったのだろう。
時代は下って江戸時代の末期、つまり幕末の志士たちもよく泣いたようである。吉田松陰なども泣癖があったとされている。松陰は、仲間と酒を飲み、酔って古今の人物を語るのを好んだが、話題が忠臣義士のことにいたると、感激のあまりよく泣いたという。
坂本龍馬もよく泣いたそうである。司馬遼太郎の名作『竜馬がゆく』(文藝春秋)にそのあたりの様子が生き生きと描かれている。
かの薩長連合がまさに成立せんとしたとき、薩摩藩の西郷隆盛を前にした桂小五郎が、長州藩の面子にこだわりを見せた。その際、龍馬は、
「まだその藩なるものの迷妄が醒めぬか。薩州がどうした、長州がなんじゃ。要は日本ではないか。小五郎」
と、すさまじい声で呼び捨てにし、「われわれ土州人は血風惨雨……」とまで言って、絶句したという。死んだ土佐の同志たちのことを思って、涙が声を吹き消したのだ。そして、次の有名な言葉はおそらく泣きじゃくりながら言い放たれた。
「薩長の連合に身を挺しておるのは、たかが薩摩藩や長州藩のためではないぞ。君にせよ西郷にせよ、しょせんは日本人にあらず、長州人・薩摩人なのか」
この時期の西郷と桂の本質を背骨まで突き刺した龍馬の名文句であり、事実上この時に薩長連合は成ったと言えるが、西郷や桂を圧倒した龍馬の涙の力も大きかった。
龍馬をめぐるエピソードで涙に関するものがもう一つある。
徳川幕府の最後の将軍、徳川慶喜が古い政治体制の終焉によって大きな混乱と犠牲が日本の社会に強いられることを避けようと大政奉還する決意をしたとき、それを後藤象二郎からの手紙によって知った龍馬は、顔を伏せて泣いたという。龍馬が泣いていることに気づいた周りの志士たちは、無理もないであろうとみな思った。この一事の成就のために、龍馬は骨身をけずるような苦心をしてきたことを一同は知っていたからだ。
しかし、龍馬の感動は別のことだった。やがて龍馬は、泣きながらこう言った。
「大樹公(将軍)、今日の心中さこそと察し奉る。よくも断じ給へるものかな、よくも断じ給へるものかな。予、誓ってこの公のために一命を捨てん」
龍馬はそう言いながら慶喜の自己犠牲の精神をたたえて、さらに涙を流したという。そのときの言葉と光景は、そこにいた中島作太郎や陸奥陽之助たちの生涯忘れえぬ記憶になっている。龍馬が画策した革命の流れのなかで、大方の革命に必然な血なまぐさい混乱を慶喜が自ら身を退くという犠牲によって回避したということを、革命の仕掛け人である龍馬こそが他の誰よりも評価したに違いない。
司馬が言うように、慶喜と龍馬は、日本史のこの時点でただ2人の同志であった。慶喜はこのとき坂本龍馬という草莽の士の名も知らなかっただろう。龍馬も慶喜の顔を知らない。しかし、この二人はただ2人だけの合作で歴史を回転した。
もちろん『竜馬がゆく』は小説であるから、以上のエピソードは完全な史実ではないだろう。しかし、坂本龍馬という人の感情の豊かさをよく表わしていると思う。
同じく司馬の『翔ぶが如く』を読むと、西郷隆盛もよく泣いたことがわかる。彼ら維新の志士たちは司馬の言葉を借りれば、「感情量が大きかった」のだろう。
人間は近代に入ると泣かなくなった。中世では人はよく泣いた。中世よりもはるかに下って松陰や龍馬や西郷の時代ですら、人間の感情量は現代よりもはるかに豊かで、激すれば死をも怖れぬかわり、他人の秘話を聞いたり、国家の窮迫を憂えたりするときは、感情を抑止することができなかったようである。
涙を流すと、人は心をさらけ出し、この上なく人間らしくなる。「聖人」として多くの人々に仰がれた孔子も感情量の豊かな人だったようだ。『論語』の「先進」篇には孔子が大泣きした場面が登場する。愛弟子である顔淵が死んだとき、「ああ、天はわれをほろぼした」と叫んで人前もはばからず慟哭したのである。周囲の者は驚いたが、孔子は「この人のために泣かなくて、一体誰のために泣くのか」と言ったという。弟子たちの感動ぶりが目に浮かぶようである。
人間が泣くと、涙が出てくる。この涙には大きな秘密が隠されているように思う。
涙とは、つまるところ、共感のかたちである。童話作家のアンデルセンは、「涙は人間がつくるいちばん小さな海」という有名な言葉を残している。私たちは、小さな海をつくることができるのだ。その小さな海は大きな海につながっているように、それぞれの人間の心も深い人類の集合的無意識でつながっている。たとえ人類が、民族や国家や宗教によって、その心を分断されていたとしても、いつかは深海において混ざり合うのである。
泣くこと、そして涙を流すことは、人間同士がつながっていることの証なのである。