平成心学塾 経営篇 人は、かならず「心」で動く #041

「縁のマネジメント」〜袖擦りあった多少の縁を活かせ

 

少し前に「無縁社会」という言葉が流行した。
NHKスペシャル「無縁社会~“無縁死”3万2千人の衝撃~」が放映され、大変な話題となった。日本の自殺率は先進国中でワースト2位だ。しかし、ここ最近、「身元不明の自殺と見られる死者」や「行き倒れ死」などが急増し、引き取り手のない遺体が増えている。その原因は、日本社会があらゆる「絆」を失っていき、「無縁社会」と化したことにあるというのである。
かつての日本社会には「血縁」という家族や親族との絆があり、「地縁」という地域との絆があった。日本人は、それらを急速に失っているようだ。
私は冠婚葬祭会社を経営しているが、各種の儀式の施行をはじめ、最近では地域社会の人々が食事をしながら語り合う「隣人祭り」や「婚活セミナー」などに積極的に取り組み、全社をあげてサポートしている。これらの活動は、すべて「無縁社会」から「有縁社会」へ進路変更する試みだと思っている。わたしたちは一人では生きていけない。誰かと一緒に暮らさなければならない。では、誰とともに暮らすのか。まずは、家族であり、それから隣人である。考えてみれば、「家族」とは最大の「隣人」かもしれない。
現代人はさまざまなストレスで不安な心を抱えて生きている。ちょうど、空中に漂う凧のようなものである。そして、わたしは凧が最も安定して空に浮かぶためには縦糸と横糸が必要ではないかと思う。縦糸とは時間軸で自分を支えてくれるもの、すなわち「先祖」である。この縦糸を「血縁」と呼ぶ。また、横糸とは空間軸から支えてくれる「隣人」である。この横糸を「地縁」と呼ぶのである。この縦横の二つの糸があれば、安定して宙に漂っていられる、すなわち心安らかに生きていられる。これこそ、人間にとっての「幸福」の正体だと思う。
この世にあるすべての物事や現象は、みなそれぞれ孤立したり、単独であるものは一つもない。他と無関係では何も存在できないのである。すべてはバラバラであるのではなく、緻密な関わり合いをしている。この緻密な関わり合いを「縁」と呼ぶ。
そして、縁ある者の集まりを「社会」と呼ぶ。だから、「無縁社会」という言葉は本当はおかしいのであり、明らかな表現矛盾なのである。「社会」とは最初から「有縁社会」なのだ。
社会に生きているすべての人間には、それぞれの居場所があり、役割がある。
ドラッカーは、「社会は、一人ひとりの人間に位置づけと役割を与える」と述べた。『ドラッカー365の金言』の中には、次のような言葉が紹介されている。
「一人ひとりの人間が、社会的な位置づけと役割を与えられなければ社会は成立せず、大量の分子が目的も目標もなく飛び回るばかりとなる」(上田淳生訳)
ドラッカーはよく「絆としての社会」という表現を使ったが、これなどまさに「有縁社会」を言い換えたものであろう。逆に言えば、「無縁社会」とは人間に社会的な位置づけと役割が与えられずに、大量の分子が目的も目標もなく飛び回る社会だということになる。
人間には、家族や親族の「血縁」をはじめ、地域の縁である「地縁」、学校や同窓生の縁である「学縁」、職場の縁である「職縁」、業界の縁である「業縁」、趣味の縁である「好縁」、信仰やボランティアなどの縁である「道縁」といったさまざまな縁がある。
わが社では、それらの縁をもう一度強く結び直す具体的な方法を実践している。すなわち、血縁を結び直す「法事・法要」、地縁を結び直す「隣人祭り」、学縁を結び直す「同窓会」、職縁を結び直す「OB会」、業縁を結び直す業界の「勉強会」、好縁を結び直す「サークル」、道縁を結び直す各種の「集会」、さらには新たな血縁を作り出す「婚活」である。
異色の哲学者である中村天風は、こう言った。
「要するにこの広い世界に、幾多数え切れないたくさんの人という人のいるなかに、自分たちだけが、一つ家のなかに、夫婦となり、親となり、子となり、兄弟姉妹となり、さては使うもの使われるものとなって、一緒に生活しているということが、並々ならぬ、換言すればとうてい人間の普通の頭では考えきれない縁という不思議以上の幽玄なるものが作用した結果だという、極めて重大な消息を、重大に考えないからである」と。
天風の有名な「駕籠に乗る人、担ぐ人、そのまた草鞋を作る人」という言葉も、この世に張りめぐらされた縁というネットワークが持つ不思議以上の幽玄さを表現しているのだろう。
陽明学者の安岡正篤はこう言った。
「仏語に、縁尋機妙という語がある。縁尋機妙とは、縁が尋ねめぐって、そこここに不思議な作用をなすことである。縁が縁を産み、新しい結縁の世界を展開させる。人間が善い縁、勝れた縁に逢うことは大変大事なことなのである。これを地蔵経は聖縁・勝縁という」
さすがに中村天風も安岡正篤も、豊かな縁を得て、幾多の政治家や実業家を指導しただけあって、含蓄のある言葉を残している。
いわゆる「柳生家の家訓」といわれるものに、「小才は縁に出会って縁に気づかず 中才は縁に気づいて縁を生かさず 大才は袖すり合った縁をも生かす」という言葉がある。この世は最初から縁に満ちており、多くの者はそれに気づいていないだけなのである。われわれの周囲には目に見えないさまざまな縁が張りめぐらされており、その存在に気づくことが大切なのである。そう、社会とは最初から「有縁社会」なのだ。
「無縁社会」など、妄言にすぎない。