平成心学塾 経営篇 人は、かならず「心」で動く #108

「公のマネジメント」~「志」を立て、では、何に心を注ぐべきか?

 

「会社は誰のものか」という議論が盛んである。株主のものなのか、経営者や社員のものなのか。ピーター・ドラッカーは、この問いに簡単に答えた。いわく、社会のものだという。したがって、社会の中に存在する社会のための機関として、富の増殖機能を伸ばしていくことがマネジメントの責任であるというのだ。つまりは、会社とは社会の「公器」ということだ。成功した経営者の多くは、自らの会社を公器として意識しており、世の人々の共感を得ている。
古代ローマ人たちは国家を「レス・プブリカ」という言葉で表わした。現代イタリア語のレパブリカ、英語のリパブリックのもとなる言葉で、「共和国」と訳されるが、もともとは「公共」という意味である。すなわち、古代ローマ人にとっての国家とは、公共の利益のためにこそ存在するものであったのだ。
塩野七生氏は、『痛快!ローマ学』に次のように書いている。
「国家は一部の特権階級や個人の利益のためにあるのではない。国家の目的は、その中で暮らす人々の幸福を最大限にすることにあるのだというのが、一貫したローマ人の思想でした。そして、カエサルもまた国家とはレス・プブリカと考えていた」
この「国家」を「会社」に置き換えれば、そのまま社長の心得になるはずだ。そして、カエサルはアレクサンダー以来の夢である、民族・文化・宗教の違いを超えた「普遍帝国」としてのローマ帝国を築き上げた。まさに、スーパー・パブリックな思想と言える。
幕末の日本でも、パブリックな思想が花開いた。吉田松陰は、その師である玉木文之進から「侍とは公のためにつくすものであるという以外にない」と徹底的に叩き込まれたと、司馬遼太郎の『世に棲む日日』にある。それゆえ松陰は、自分という存在と肉体はあくまでも私的なものであり、心は公のものでなければならないと覚悟した。
坂本龍馬はさらに松陰の先を行き、「公」というコンセプトを、一山内家や一土佐藩でなく、日本および日本人という総体でとらえた。いわば龍馬によって、「日本」そして「日本人」という新しい言葉が発明されたのであり、従来の藩とは比較にならないほどの大きな公概念があることを知った幕末の志士たちの公意識は一気に高まった。やがてそれが尊王攘夷思想と補完しあって、倒幕の強大なエネルギーと化していったのである。
公意識が志というものを育み、やがて大いなる事を成すのである。
何か事を成したいと考えておられる方は、ぜひ公意識というものを重視されるとよい。あなたの心の焦点が「私」から「公」に移行し、それを宣言したときから、あなた一人の問題ではなくなり、あなたの周囲の人々も巻き込まれてゆく。
パブリックとは、自分以外の他人をすべて巻き込むことなのである。