愚
「愚のマネジメント」~真の知恵者は馬鹿のふりをする
『論語』には愚者を評価する場面が出てくる。孔子はどうも、愚を高く評価していたようである。この愚の思想は日本にも伝わり、民間の口碑や伝説や格言などにも残っている。
その一つに「馬鹿殿」なる語がある。後世の人々はこれを本当の馬鹿殿様の意味に理解しているが、そうではなく本当は殿様礼賛の語なのである。殿様というものは、よくできる者もできない者も、役に立つ者も立たない者も、とにかく多様な家来を抱えて、何とか使いこなしていかねばならない。さらにその後には幕府という厄介なものが控えていて、隙があれば取り潰してやろうと絶えず目を光らせている。小利口な殿様ではとてもやっていけない。それこそ馬鹿にならなければ、務まらない。それをアイロニカルに表現したのが「馬鹿殿」なのである。
加賀藩主の前田利常は利家の四男だったが、その生まれ持った利発で物怖じしない性格に、利家は跡継ぎとしての才覚を認め、非常に可愛がったという。ところが、藩主となってからの利常はいつも鼻毛を伸ばし、口を半開きにしていた。このだらしない阿呆面を見るに見かねた側近の家臣が、あるとき利常にそっと鏡を差し出した。すると利常は、「これは加賀、能登、越中の三国を守る鼻毛じゃ。お前たちが安泰に暮らせるのもこの鼻毛のおかげじゃぞ」と言ったという。
江戸時代、幕府は天下を維持するための危険因子を取り除くために、外様大名を中心に続々と改易処分を行なっていた。なんと関ケ原以降でも100以上の大名が改易などで廃絶となっていた。そこで利常は、徹底的に愚かな行動をとって幕府に「謀反など考えてもいませんよ」と見せかけたのである。
幕末の長州藩主、毛利慶親も同様だ。御前会議で家臣たちが激論を交わしていても、一言も発さない。最終的に決断を求められると、「そうせい」とだけ返事する。それゆえ「そうせい候」などとあだ名されていたが、もちろん本当の愚者ではなく、長州藩の安泰のために愚者を装っていたのだ。その証拠に吉田松陰を将来の人材と認めたりしている。
また日露戦争時、大山巌は満州軍の総司令部にあって、よく居眠りをしていた。時折出かけてきては、参謀総長の児玉源太郎に向かって、「児玉さん、今日はどっちの方で戦争がありますか」などと、呑気そうにトボケたことを訊いてきたが、周囲は戦争の緊張感から開放されてリラックスできたという。これこそ、マネジメントの上級篇と言えるだろう。