運
「運のマネジメント」〜自分の運を信じれば、道は開ける
組織のリーダーを選ぶ最大の条件とは何か。それは、人格やノウハウ、経験などではなく、運である。「運」という漢字の成り立ちを調べると、「軍」という字との関連が書かれている。運とは、「軍を進める」という意味で、戦いの中で手にするものなのだ。
戦えば命を落とすかもしれない。そこから「運命」という言葉が生まれた。そして、命を落とさないようにするためには、命がけで戦って、運をつかみ取らなければならない。運とは偶然に手にするものではないのである。だから、運をつかむには努力が必要であり、人の倍、10倍、あるいは100倍もの努力をして勝ち取るものこそ運なのだ。
司馬遼太郎は名作『坂の上の雲』で、こう書いている。「戦争というのは国家がやる血みどろの賭博であるとするなら、将軍というのはその賭博を代行する血の勝負師であらねばならない」ならば当然、天性、勝負運のある男でなければならない。賭博の技術は参謀がやるにしても、運を貸すのは将軍でなければならないのである。
日露戦争が迫ってきた頃の日本で、海軍大臣の山本権兵衛は、連合艦隊司令長官を選ぶにあたって、何人かの提督の中から、最も名声がなく、しかも舞鶴鎮守府司令長官という閑職にいた東郷平八郎を選んだ。そして明治天皇からその理由を下問されたとき、「この男は若い頃から運の良かった男でございますので」と答えた。山本は、戦争とその執行者というものがどういうものであるのかを知り抜いていたのである。
こうして連合艦隊司令長官になった東郷はその人格ゆえの包容力で天才的参謀の秋山真之の案を入れて、あの敵前でUターンするという危険を冒しながら相手の航路をふさぎ、その艦列を混乱させての一方的な勝利を獲得したわけである。日本海海戦における当時最強のバルチック艦隊全滅というパーフェクトゲームは、まさに世界史上に例のないものだが、東郷平八郎の天与の運が日本を救ったと言ってよいだろう。
二・二六事件のときに大蔵大臣として暗殺された高橋是清は、アメリカ滞在中に奴隷として売られ、ようやく逃れて帰国したなどという数奇な運命の持ち主である。彼は日頃、走ってきた騎馬武者の馬蹄にかけられながらほとんどかすり傷一つ負わなかった幼時体験を思い返し、自分は子どもの頃から運のいい人間だったと思い込んでいたという。だから、どんな失敗をし窮地に立っても、いつか運が来るものと信じて、必死に努力してきたと言っていたそうである。
あの松下幸之助が「自分は運がよい」と確信している者を登用したのは有名だが、彼自身も自分の運の強さを信じていた。十七歳で奉公をやめセメント会社の工員になった頃、通勤帰りの巡航船から海の中に落ちてしまった。あまり泳ぎを知らない彼は、とにかくもがきもがいて水面に顔を出した時には、船はもう大分向こうに行ってしまった。ところが、幸いにして夏だったので、その船が帰ってきて救い上げてくれたのである。
その時に松下はどう考えたかというと、自分は運が強いぞということであった。このような危機に直面しても決して死なないということは、自分は非常に運が強い。そうすると、それほど運が強ければ自分は容易には死なないから、ある程度のことはできるぞということを、何気なしに考えるようになった。その後、二、三度そういう死ぬような目にあったが、その時にも死ななかったことを考えて、さらに運の強さを知った。それゆえに松下は次々と仕事をする上において、そういう困難な場面に遭遇しても自分は運が強かった、だからこのぐらいの仕事はできるかもしれないと、だんだんと仕事をしていった結果、世界の大富豪にまで上りつめたわけである。
貧困の中に育ち、小学校すら満足に行かず、9つの年から丁稚奉公に行った松下幸之助のサクセスストーリーは、まさに「人間界の奇跡」と呼ぶにふさわしいが、過去にも、そのように呼ばれる存在が日本にいた。豊臣秀吉である。しかし、秀吉は人間関係において非常に運の悪い人だった。その点、家康のほうが幸運であった。なぜなら、秀吉は徳をもって重きをなした重臣にみんな先立たれている。
第一は竹中半兵衛。半兵衛は肺を病んで、播州征伐の時にわずか34歳で亡くなっている。陣中にあってもたいてい寝ていて、出陣の時には輿に乗って指揮したのにもかかわらず、三軍の将兵は半兵衛がいるというだけで粛然としたというから、その軍略および徳は計り知れないものがあった。
次は堀秀政。「名人左右衛門」と呼ばれたほど、戦略、戦術にかけて名人芸を発揮した。さすがの家康もこの人物には一目置いた。非常に徳望があり、識見も高かったが、やはり36六歳の若さで亡くなってしまった。
もう一人が蒲生氏郷。彼は秀吉の閣僚の中で文武兼備の傑出した名将であるのみならず、人格も優れた人だった。これくらい部下を愛した人はおらず、収入のほとんどを部下に与えた。しかし、彼も40歳で先立った
さらにもう一人は、秀吉さえも一目も二目も置き、「日本の蓋になって、全日本をおさえて余りある人だ」と言わしめたほど惚れ込んだ大器・小早川隆景だが、この人物にまで先立たれてしまった。このように人心を集め、徳望が高い重量級の人材がみんな亡くなってしまった。晩年の秀吉ほど運のない人はいなかったと言える。