平成心学塾 経営篇 人は、かならず「心」で動く #128

「助のマネジメント」~上杉鷹山の「思いやり」

 

リーダーとは基本的に助っ人である。部下を助けるのはもちろん、「強きを挫き、弱きを助ける」という正義の味方でなければならない。真のリーダーとは、つねに組織内の弱者に目を配り、守り、助ける存在であることが求められる。
上杉鷹山は、米沢藩の改革を行なったとき、まっさきに藩内の身体障害者に対する虐待を禁止した。病人も助けた。医者の絶対数が足りない時代で、病気になっても医者にかかることができずに命を落とす者が多かった。鷹山は藩内各地に官選の医師を置いて、彼らに住宅地を与えるなどして厚遇した。そのために、多くの病人の命が救われたのである。
鷹山はまた、「間引き」を禁止して、保育手当を支給した。江戸時代にあって、堕胎としての間引きは日常化していた。子を産んだばかりの母親がすぐ脇に寝ているというのに、産婆が生まれたばかりの赤ん坊の足を持って逆さにつるし、産湯と称する水を張ったタライにつけて窒息死させるのだ。この悲しい間引きが、米沢藩においてもさかんに行なわれていた。その要因は、つまるところ、子どもを産んでも育てられない生活の貧しさにあった。鷹山は熟慮と協議を重ねた結果、さまざまなやりくりによって6000両の育児資金をつくり出し、子どもを育てられない貧しい者にこれを与えることにした。そして前後30年にもおよぶ努力の結果、ついに米沢藩における間引きの根絶に成功したのである。
さらには、老人をも助けた。200年以上前の米沢において、働けなくなった老人は、「口減らし」のためにしばしば野山に捨てられた。もちろん、生活苦ゆえだ。これを憂えた鷹山は、90歳以上の者には亡くなるまで食べてゆける金銭を与えた。現在でいう「年金」である。そして70歳以上の者に対しては、村で責任をもっていたわり世話することを決めた。鷹山自らも敬老に努め、老人を大切にいたわる孝子を褒賞することを忘れなかった。こうして、忌まわしい悪習を根絶することに成功したのである。
このように鷹山は、身体障害者、病人、妊婦、赤子、老人といった社会的にもっとも弱い立場の人々を助けに助けたハートフル・リーダーであった。しかし、その福祉のすべてを藩財政で負担することは不可能であり、鷹山は次の3つの「助」を打ち出した。
1.自助。すなわち、自ら助ける。
2.互助。互いに近隣社会が助け合う。
3.扶助。藩政府が手を差し伸べる。
この三位一体で、米沢藩の福祉政策は奇跡の成功を収めたのである。
真のリーダーには「仁」や「慈悲」や「愛」が求められるが、それらは「思いやり」という一言に集約されよう。そして、その「思いやり」を形に表わした「弱きを助ける」ときの具体的な方法論として、自助・互助・扶助の考え方は重みを増す。