平成心学塾 経営篇 人は、かならず「心」で動く #146

閉講にあたって

「月光経営を目指して」

 

本書は、月光の書である。
幻冬舎文庫から出ている『ロマンティック・デス 月を見よ、死を想え』は月そのものの本だし、前作『ハートフル・ソサエティ』でも月のことをたくさん書いた。それほどまでに月を愛している私だが、最近、「月光経営」という奇妙な考えが浮かび、頭に住みついてしまった。
イソップ寓話のなかに「北風と太陽」という話がある。旅人の外套を脱がせる競争をしていて、北風がビュービュー強く吹きつけても、旅人は寒さのあまり強く外套を握りしめるだけであった。一方、太陽がポカポカと暖かく照らしたところ、旅人は暑くなって、ついに外套を脱いでしまうという話である。
人を動かすときの典型的な二つの方策のアナロジーとして知られ、北風政策と太陽政策、北風経営と太陽経営、といった具合に使われる。月光経営とは、北風経営でも太陽経営でもない第三のマネジメントなのである。
それは、こういうことだ。
ブッダは満月の夜に生まれ、満月の夜に悟りを開き、満月の夜に亡くなったという。ブッダは月の光に影響を受けやすかったのだろう。言い換えると、月光が放つ「気」にとても敏感だったのだ。ブッダとは「めざめた者」という意味だが、月の重要性にもめざめていたに違いない。「悟り」や「死」とは結局、重力からの開放であり、宇宙体験にも通じるものである。ブッダこそは、満月の力を借りて、人類最初の宇宙人になった存在だと思う。そして、彼が開いた仏教とは、満月の夜に祭りや反省の儀式を行なう「月の宗教」であると言える。
その仏教では、月光を「慈悲」に例える。実際、やわらかな月光を浴びていると、たまらなく瞑想的で優しい気分になり、慈悲そのものに包まれている気分になってくる。
リストラの嵐を吹きつけ社員を寒がらせる北風経営でもなく、ぬくぬくと社員を甘やかす太陽経営でもなく、慈悲と徳をもって社員をやさしく包み込む月光経営。これこそ、心の経営、つまりハートフル・マネジメントのイメージそのものとなる。
いじめ、虐待、自殺、殺人、テロに戦争と、人類の不幸は未だ解消しない。私たちは心なきハートレス社会に向かっているのだろうか。そうならないための私なりの具体的な方策を前作『ハートフル・ソサエティ』で提示したつもりである。
私は、人間を救うものは人間以外にないと信じる。一人ひとりの人間が人間であることを自覚して、人間として何をすべきか、何をしてはならないか、というもっとも基本的な理性にめざめるなら、いま私たちを苦しめている人間内外の汚染や汚濁を取り除くことは不可能ではない。いますぐに「人間を救うものは人間だ」ということを自覚することが必要である。
そして、そこでは経営者の存在というものが、きわめて大きな意味をもってくる。効率主義一辺倒で地球環境を破壊するだけが経済ではない。本来、「豊かさの提供システム」である経済は、人類を幸福にするために存在しているのだ。士農工商は過去の話だが、日本語で「商人」というときのイメージには、もみ手をしてお客の顔色をうかがって巧みに売り込むというような卑屈なイメージが今でもどこかしら残っている。しかし商業という機能は、本来きわめて広く、かつポジティブなものなのである。
商業とは、技術と人を媒介し、人と人、組織と組織、さらには文化と文化とを連合させる技術なのだ。ギリシャ神話で商業の神といわれるヘルメスやローマ神話のマーキュリーは、商業、発明、音楽、情報などをつかさどる神々の使者であった。現代の社会で取引を機能させ、経済的成功へと導くには、人と人、組織と組織、文化と文化を連結するこのような使者の手が必要なのである。
ゲーテは「商業という秩序は何と見事なものか。商人の精神ほど幅広くなくてはならないものはない」と書いている。
また、日本の哲学者である三木清は「近代的な冒険心と、合理主義と、オプティミズムと、進歩の観念との混合から生まれた最高のものは企業家精神である。古代の人間理想が賢者であり、中世のそれが聖者であったように、近代のそれは企業家であるといい得るであろう」と述べた。
さらに、今後来るハートフル・ソサエティにおいては、人々を幸福にできる心ある企業家は賢者と聖者の性格をも併せ持つだろう。そのためにもっとも必要とされるものこそがハートフル・マネジメントであり、本書に書かれた百八の道ではないだろうか。データ・マネジメントやナレッジ・マネジメントには、その本質に利己的なものが潜んでいるが、これから求められるのは、人の心の成長をどう支えていき、生きがいを共有できるかという利他的なハートフル・マネジメントなのである。マネジメントというものは、単なる理論的な手法や分析的な手法を超えて、人間の総合力が問われる最高のアートになり得るのだ。
それはもう総合的な「人間関係学」さらには「幸福学」とさえ呼べるものである。経営者と従業員、上司と部下のみならず、先輩と後輩、コーチと選手、教師と生徒、医師と患者、親と子、夫と妻、そして恋人同士、といったようにありとあらゆる人間関係においてマネジメントの視点が必要とされるのだ。
スポーツも教育も医療も恋愛も、これからはハートフル・マネジメントだ!
もちろん心の経営といっても、利益は大問題である。昭和の経営の神様・松下幸之助は「利益が出ないような経営では絶対に意義がない」と喝破し、平成の経営の神様・稲盛和夫氏も「人一倍利益をあげるようにするということが、経営者として一番大切なことである」と断言している。
利益とは何だろうか。日本初の経営コンサルタントとして知られる堀紘一氏は、利益とは影のようなものであると述べている。例えば、太陽のような意味のある実態を考えてみよう。太陽は照るときもあれば、照らないときもある。しかし地球上のどんなところでも、冬の北極でも南極でも一年中一度も太陽が照らないということはない。そして太陽が照ると、影ができる。そんなものは要らないと言っても、太陽という実態が照れば影はできる。
ビジネスでは、世の中の人に役立つような商品あるいはサービスを提供する。場合によっては、人々はそれに見向きもせず、買ってくれないかもしれない。利用してもらえないかもしれない。でも本当に価値のある商品、意味のあるサービスであれば、必ずその値打ちを認めてくれる人が現われる。そういう認めてくれる消費者、ユーザーが必ず出てくる。それは、いわば太陽のような存在である。
真価を認めてくれる人がいれば、売上は必ず立ち、そういう人がたくさんいれば、要らないと言ってもできる影のように、必ず利益があがるのである。ドラッカーは名著『現代の経営』において、「事業体とは何かを問われると、たいていの企業人は利益を得るための組織と答える。たいていの経済学者も同じように答える。この答えは間違いなだけでない。的はずれである」と述べている。私が思うに、ドラッカーが言いたかったことは、実態と影を混同するなということではないだろうか。目的は、あくまでも実態である太陽が光を放つことである。金儲けということに極意があるとすれば、それは意味のある、価値のある商品・サービスを提供することであり、それに尽きるのだ。
そして、低成長時代を迎えた今日、かつての高度成長期に燦燦と輝いていた太陽の光を求めるのには無理がある。バブル期には灼熱の太陽がビジネス社会を照らしあげ、非常に濃い影ができた。しかし、あまりの暑さのため、また日射病を避けるため、人々は木陰や建物のなかに逃げ込み、影そのものが消えてしまうという結末になってしまったのである。バブル崩壊とは、濃い影が一瞬にして消滅することではないだろうか。
そこで現在のような低成長期には太陽よりも月が必要となる。暑くもなく、日射病になる心配もない月光はいつまでも地上に浮かびあがっている。また、高度成長期において、私たちはいたずらに「若さ」と「生」を謳歌してきたけれども、来るべき超高齢化社会の足音は「老い」と「死」に正面から向かい合わなければならない時代の訪れを告げている。太陽から月への主役交代とは、それらを見事に象徴していると言えないだろうか。
慈悲の光を放ち、おだやかな影をつくるものこそ月光経営である。各企業がそれぞれの社会的使命を自覚し、世の人々の幸福に貢献し、徳業となることをめざすならば、その結果として利益という月の影ができるのである。
満月の夜に影ふみをしながら、経営という最高の遊びを楽しもうではないか!
本書は、月光の書である。月光とは、月が自ら発した光ではない。それはあくまで太陽の反射光である。同様に、本書に登場するさまざまな考えやエピソードは、すべて先人という太陽からの光を月である私が反射して、読者諸兄のもとにお届けしたにすぎない。本書を執筆するにあたり、四書五経から陽明学の書物まで広く目を通した。孔子や孟子や王陽明といった巨星のまばゆい光を感じていただきたい。
また、ドラッカーをはじめ、安岡正篤、中村天風、松下幸之助、稲盛和夫といった人々の著作は入手し得る限りのものをすべて読んだ。本書では、太陽としての彼ら先哲の光が輝いていると思う。
さらに、司馬遼太郎作品や塩野七生作品の主要なものもほとんど読破し、その結果、本書にアレクサンダー、ハンニバル、カエサル、ナポレオンなどの西欧の英雄や、武田信玄、上杉謙信、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などの戦国の英雄、そして吉田松陰、坂本龍馬、西郷隆盛などの幕末維新の志士といった、古今東西の「人間通」たちが入れ替わり立ち代わりオールスターで登場して多彩な光を放つことになったのである。
心の経営についての軽やかなコンセプト・カタログのようなものをめざしたのだが、結果として何が飛び出すかわからないオモチャ箱のようになった感も否めない。でも、読者諸兄がそれぞれの読み方、楽しみ方をしていただければ、塾長として嬉しい限りである。