平成心学塾 経営篇 人は、かならず「心」で動く #142

「灯のマネジメント」~一燈が万燈になり、大いなる文化や文明がつくられる

 

冠婚葬祭業を営むわたしは、結婚式でも葬儀でもロウソクが使われることを昔から興味深く思っていた。結婚披露宴では、キャンドル・サービスや、最近ではキャンドル・リレーといった演出も普及している。葬儀はもちろん、法要や追悼式、供養祭などでもロウソクは欠かせない。さらに言えば、神道でも仏教でも儒教でも、ユダヤ教でもキリスト教でもイスラム教でも、その宗教儀式においてロウソクはきわめて重要な役割を果たしている。そういえば、ゾロアスター教という火そのものを崇拝する宗教もあった。
火があらゆる宗教儀礼で使用されることはそんなに不思議なことではないだろう。照明は火の模倣からはじまっている。焚き火以前にも、自然界には火山もあったし、山火事のような自然発火もあった。そのように、もともと存在していたものを人間がコントロールできるようにして製品化し、生活に活かしてきたものがロウソクなどの照明なのである。
そして、火とは何かと考えた場合、それは天上の太陽を地上に降ろしたものにほかならない。世界中のあらゆる民族に共通した信仰の対象は太陽と月である。焚き火や松明が地上の太陽光なら、かすかなロウソクの炎は地上の月光である。月光は天国や極楽といった「あの世」を幻視させる力を持っている。宗教儀礼で使われてきたことは当然だろう。
わたしは、世界各地の宗教の発達においてロウソクが果たした役割は非常に大きかったのではないかと思う。それは、ロウソクの炎が揺れることも大きな原因があったことだろう。最近、ロウソクの炎を見つめて瞑想する人が増えてきている。これは、古代のロウソクと宗教の結びつき想像させるものだ。
ロウソクの炎の揺れ方は、いわゆる「1/fゆらぎ」だという説がある。人の心拍の間隔、電車の揺れ、小川のせせらぎ、木漏れ日、蛍の光り方なども「1/fゆらぎ」だとされているようだ。ロウソクの炎が揺れれば心も揺れる。人間の心の歴史にロウソクは深く関わってきた。宗教のみならず、哲学においてもそうだった。
ロウソクの起源は、紀元前2000年から1500年のギリシャにさかのぼる。ミノア文明とかクレタ文明と呼ばれる古代文明があった。当時のクレタ島はギリシャやキプロス、エジプトなどとの交流ポイントにあったが、このクレタ島からロウソクを置く燭台が発見されたのである。古代エジプトではミイラ作成のために古くからミツロウが使われていた。2300年前のツタンカーメン王の墓からも燭台が発見されている。
当然ながら、時代が下ったギリシャのアテネでもロウソクが活躍していた。紀元前3世紀には相当に普及していたようだ。その頃、ソクラテスが誕生した。いわゆる哲学そのものを生んだのは彼だとされている。アテネの夜、ロウソクを前にして、さまざまな哲学談義が交わされたことは想像に難くない。まさに、ロウソクは哲学の産婆であり、揺りかごだったのかもしれない。
信仰や思想が対立すれば戦争になる。でもロウソクは、あらゆる宗教や哲学を結びつける。まさに平和のシンボルではないか。「和ろうそく」というものがある。日本製のロウソクという意味である。日本には奈良時代に中国から仏教とともにロウソクが入ってきたとされている。しかし、和ろうそくの「和」には「平和」そのものの意味も込められているのではないだろうか。和ろうそくに火をともせば、世界が平和になれば素敵だと思う。
ロウソクは自らの身を細らせて燃えるもの。自己を犠牲にして周囲を照らすもの。ただひたすら他者に与える存在であり、それは「利他」の実践にほかならない。人間がみなロウソクのように生きれば、世界は平和になるはずである。
わたしは、かつてこんな短歌を詠んだ。
「ただ直き心のみにて見上げれば 神は太陽 月は仏よ」
神が放つ太陽光、仏が照らす月光。その両方が人間にとって必要なことは言うまでもない。人間は光を放つことはできないが、灯をともすことはできる。天の光を仰ぎ、地に灯をともす。それが、人の道かもしれない。
人の道といえば、それを体系的に説いた教えが儒教である。孔子の開いた儒教では、個人を家庭や社会と結びつけて一貫した人格形成を説いた。そのメインテキストとして、『大学』『論語』『中庸』『孟子』の、いわゆる「四書」がある。いずれも「修己知人の書」といわれ、日本で独自の発展を遂げました。そのテーマは、身を修めた一人のともした灯が、やがて家族を照らし、社会を照らすにいたるというものである。
「一燈照隅行」という言葉がある。おのおのが、それぞれ一燈となって、一隅を照らす、すなわち自分が存在する世界の片隅を照らすことである。伝教大師こと最澄は、著書『山家学生式』の中で、この「一隅を照らす」という言葉を使っている。最澄が開いた比叡山は多くの灯をともす者たちを輩出した。すなわち、法然、親鸞、栄西、道元、日蓮といった日本仏教史の巨人たちである。彼らはみな、もともと比叡山で修行する天台宗の僧侶であり、開祖である最澄の「一隅を照らす」という志を受け継ぐ者たちだった。灯をともす人間が増えていくと、一燈が万燈になる。それが「万燈遍照」だ。わたしたち、すべての人類がめざす道である。
まずは、一燈から。すべては、一燈から。人間は一燈を灯すことができる。それが万燈になり、大いなる文化や文明がつくられてゆく。そう、「灯」とは人間の営みそのものなのだ。なんと偉大なことであろうか。