平成心学塾 経営篇 人は、かならず「心」で動く #099

「決のマネジメント」~決断こそがリーダーの仕事である

 

リーダーたる者、場合によっては、独断で異常な決断をもしなければならない。それがリーダー自身の運命だけではなく部下の人生も決定し、かつまた歴史をも変えるということもあるのだ。かのユリウス・カエサルがルビコン川を渡るあの時のあの決断、ローマ人たちは彼がそこを越えてきたら反乱軍とみなすという脅しをかけ、よもやその境を越えまいと思っていたところへ、シーザーはわずかの手勢を率いて川を渡り、奇襲をかける。これによってカエサルの政権が誕生し、かつまた部下たちも繁栄した。
同じことを織田信長も桶狭間の戦いでやっている。あのとき、信長が見事だったのは、10倍以上ある今川義元の軍勢の挙動を諜者を放って精密に把握し、最終的に義元がどこからどこへ動くということを通報した部下に最大の褒賞を与えて、殴り込みの戦いの中で今川義元の首を上げた部下にはさほどの褒賞を与えていない点である。つまり戦さというもののメカニズムを正確に認識し、それを構成している要素のプライオリティすなわち優先順位を的確につけたのである。
信長の家来であった羽柴秀吉も大きな決断をした。主君である信長が本能寺で明智光秀に討たれたことを知った秀吉は、とるものもとりあえず、ただちに光秀と一戦を交えるべく京都に向かって駆けつけた。いわゆる「中国大返し」である。当時の秀吉は、信長の下の数多くの武将の中でも最も遠方で戦っていた。京都の近辺には、信長の息子もいた。しかし、有力な武将たちも、信長の息子も、信長の仇である光秀を討ちに立ち上がらず、駆けつけない。いわば形勢を読んでいたわけだが、秀吉のみは、ただちに決断を下した。すなわち、戦っていた相手の毛利家と和睦し、不眠不休で京都へ駆け戻ってきたのである。そして。山崎の合戦に勝利をおさめ、光秀の軍勢を討ち負かし、見事に主君の仇を討った。
秀吉のこの大胆な行動について、大抵の人は、天下を手に入れるチャンス到来とばかりに喜び勇んで帰ったのだという見方をしている。しかし、松下幸之助は、そういう利害や打算ではなく、秀吉には「主君の仇を討つ」という考えがあったはずだと述べている。松下自身も、常に何かを決断する際の基準を「何が正しいか」ということに置いたという。
大将というのは軍師とは違う。軍師は兵法のセオリー通りに、こういう戦法をとったらどうかということを大将に進言する。しかし、それを採用するかしないかを決めるのは、大将の仕事である。大将の仕事とは決断なのだ。