平成心学塾 経営篇 人は、かならず「心」で動く #009

「志のマネジメント」〜心のベクトルが人々の共感を呼ぶ

 

この平成心学塾経営篇ではさまざまなキーワードを用いて心のマネジメントのあり方をさぐっているが、結局、最も大切なものは「志」であると私は思う。
志とは心がめざす方向、つまり心のベクトルである。行き先のわからない船や飛行機には誰も乗らないように、心の行き先が定まっていないような者には、誰も共感しないし、ましてや絶対について行こうとはしない。
志に生きる者を志士と呼ぶ。幕末の志士たちはみな、青雲の志を抱いていた。吉田松陰は、人生において最も基本となる大切なものは、志を立てることだと日頃から門下生たちに説いていた。そして、志の何たるかについて、こう説いた。
「志というものは、国家国民のことを憂いて、一点の私心もないものである。その志に誤りがないことを自ら確信すれば、天地、祖先に対して少しもおそれることはない。天下後世に対しても恥じるところはない」
また、志を持ったら、その志すところを身をもって行動に現わさなければならない。その実践者こそ志士であるとする松陰は、志士の在りよう、覚悟というものをこう述べた。
「志士とは、高い理想を持ち、いかなる場面に出遭おうとも、その節操を変えない人物をいう。節操を守る人物は、困窮に陥ることはもとより覚悟の上で、いつ死んでもよいとの覚悟もできているものである」
最近の経営書を読むと、志の重要性について言及しているものが多くなってきたように思う。志の条件についてもさまざまな示唆がある。例えば、「長期の視野に立つこと」であるとか、「社会に貢献すること」であるとか、「幼少の頃の夢を思い起こすこと」であるとか、「内部からの願い」であるとかだ。
どれも完全な間違いではないが、いずれも志の核心はついていないと思う。また、「夢」と「志」を混同しているものが多いのが気になる。
私は、志というのは何よりも「無私」であってこそ、その呼び名に値するのであると強調したい。松陰の言葉に「志なき者は、虫(無志)である」というのがあるが、これをもじれば、「志ある者は、無私である」と言えよう。平たく言えば、「自分が幸せになりたい」というのは夢であり、「世の多くの人々を幸せにしたい」というのが志である。夢は私、志は公に通じているのだ。自分ではなく、世の多くの人々、「幸せになりたい」ではなく「幸せにしたい」、この違いが重要なのである。
企業もしかり。もっとこの商品を買ってほしいとか、もっと売上げを伸ばしたいとか、株式を上場したいなどというのは、すべて私的利益に向いた夢にすぎない。そこに公的利益はない。社員の給料を上げたいとか、待遇を良くしたいというのは、一見、志のようではあるが、やはり身内の幸福を願う夢であると言えよう。真の志は、あくまで世のため人のために立てるものなのだ。
ただ、志を抱いた企業が必ず成功するかというと、短期的スパンで見れば、難しいかもしれない。かつて、ダイエーとセゾンという企業集団があり、それぞれが日本人のライフスタイルをトータルにプロデュースする総合生活産業をめざしていた。ありとあらゆる業種に進出し続け、大きな話題を提供したが、結果はご存知の通りである。両者ともバブルの象徴とされている。
しかし、私はダイエーとセゾンのすべてが間違っていたとは決して思わない。「日本の物価を二分の一にする」と宣言して流通革命を推進した中内㓛氏。常に経済と文化のリンクを意識し、社会の中における美しい企業のあり方を追求した堤清二氏。彼らの心の中には「日本人を豊かにする」という強い想いがあったはずだし、それはやはり志と呼ぶべきものではないだろうか。志なくして、両氏ともあれだけの大事業を短期間に成し遂げることは絶対に不可能であったし、逆にその志が大きくなりすぎた企業集団から乖離したときに凋落ははじまったのではないだろうか。
ダイエーとセゾンは確実に日本人の生活を変えたし、二人とも日本の経営史に名を残す巨人であることは間違いない。栄枯盛衰が世の法則だが、最終的な評価は歴史が下すのである。
私にも経営者としての志がある。冠婚葬祭業を営む者として、上昇する一方の日本人の離婚件数と自殺者数を減らしたいと思っている。人類史上最も離婚が少なかったという古代ローマ式結婚式の提案や、自殺者のほとんどを占める高齢者のための福祉特区構想など、具体的なプロジェクトも推進している。さらには、必ず死ぬべき人が亡くなっても「不幸があった」などと言わない社会にすべく、夜空に浮かぶ月をあの世に見立てて、死を詩に変えるという志を立てている。
月といえば、中国には「風吹月不動」という言葉がある。台風などが来ると、強風に吹き飛ばされた雲が次々に空を走り去っていく。一方、それはまるで月が猛烈な勢いで空を飛んでいるようにも見える。しかし実際には、いかに強風が吹き荒れようとも、月は動じないで、天体としての運行を淡々と行なっているという意味だ。
私の志、心のベクトルはまさに月に向かっている。どんなに強風に吹かれても動じない月のように、いかなる試練が訪れようとも決して志を曲げない。「風吹月不動」の精神で、わが志を果たしたいと思う。