平成心学塾 経営篇 人は、かならず「心」で動く #033

「書のマネジメント」〜書くことにより縁と志は強くなる

 

私は、とにかく毎日、書いている。
何を書くか。まず、原稿を書く。現在はレギュラーで新聞のコラムが2本、雑誌が1本ある。それに毎月の社内報に社員へのメッセージを大量に書く。そのうえ、新聞社や出版社から単発の原稿依頼が来る。当社のミッションやわが志を世の人々に伝えたいので、よほどの理由がない限りは執筆の依頼を断らないようにしている。
さらに、単行本を執筆する場合は、それこそ寝る間も惜しんで書きまくる。別に早く書く技術を学んだわけでもないが、本を書くのは早い方だ。幻冬舎文庫から出た『ロマンティック・デス~月を見よ、死を想え』のオリジナル版はハードカバーで440ページもあり、かなり濃度の濃い内容だが、1ヶ月かからないで書き上げた。2003年の暮れには『結魂論~なぜ人は結婚するのか』と『老福論~人は老いるほど豊かになる』を2冊同時に上梓した。私としては実に10年ぶりの単行本の執筆であったが、それぞれ約2週間ずつで書き、2冊あわせて1ヶ月かからなかった。
それもパソコンではなく、手書きで書くのである。何を隠そう、築80年を超える骨董住宅に住む私は、自身も超アナログ人間であり、『孔子とドラッカー』という本からパソコンを使って書くようになった。その前作の『ハートフル・ソサエティ』も手書きで書いた。私は万年筆が好きで、少々集めてもいる。社長に就任したときは、父、友人一同、先輩経営者などから記念にそれぞれ万年筆を贈られた。私の宝物である。でも原稿は万年筆では書かない。200字詰めのぺラの原稿用紙にユニボールの黒のサインペンで書く。処女作『ハートフルに遊ぶ』からずっと一貫して愛用しており、今でも手帳にメモなどを書き込むときは、このペンである。私は筆圧が強くて無理な力が入るため、1冊分の原稿を書いた後は、いつも右手の中指が変形するほど腫れあがっていたものだ。そういう意味では、目は疲れるが指は痛くないので、パソコンはありがたい。
何を書くか。手紙を書く。私は毎日のように誰かに手紙を書いている。初めて面会した政治家や経済人や文化人、研修旅行などで同行した人、パーティーで知り合って名詞交換をした人、読んで感動した本の著者、とにかくありとあらゆる人に手紙を書く。社員や友人に誕生日のカードも書く。それも結構長文で、乗ると便箋で十枚ぐらい平気で書く。それによって、ずいぶん多くの方々との縁を深められたのではないかと思う。
「きみに読む物語」という映画で、恋人に365通のラブレターを出した男というのが出てきて話題を呼んだが、はっきり言って、私がその気になればキミヨムを超える自信はある。絵ハガキもよく書く。出張が多いので、出張先から家族や友人にさまざまな写真のポストカードを出す。私が疲れたときに寄る止まり木のような小さなスナックが小倉にあるのだが、そこのマスターに絵ハガキを出すと、とても喜んでくれる。それが嬉しくて、ついつい調子に乗って全国各地から、また海外からも出していたら、気づくと500枚ぐらいになっていた。私が出した絵ハガキはすべて店内に飾られていたが、残念なことにいまは閉店してしまった。
何を書くか。筆で自作の短歌を短冊に書く。
「詩のマネジメント」で述べたように、当社の使命やわが志を和歌に込めて、社員に披露している。そんな達筆ではないので本当は恥ずかしいのだが、社長が自らの直筆で書くことが大事と思い、書いた短冊は社員にプレゼントしたり、会社のエレベーター内に展示したりしている。
何を書くか。大切な本を書き写す。『論語』や吉田松陰の『留魂録』などは筆で書き写したが、最近、サインペンで司馬遼太郎の主要作品の重要部分を書き写している。伊東屋で求めた皮製のちょっと贅沢な手帳を使っている。ただ読むだけでなく、自分の手で愛読書を書き写すと、内容が強く心のなかに入ってくる。戦国時代や幕末維新、明治を描いた司馬作品はすべて筆写したが、人間探求の絶好の勉強となり、本の執筆にも大いに役立った。
何を書くか。お経を書き写す。「般若心経」を中心として、写経がブームになっている。初期の仏教では、経典は口承で伝えられ、文字化されていなかった。お経の書写が行なわれるようになったのは、紀元前後、ちょうど部派と大乗との区別ができあがったころと言われている。事実、『般若経』や『法華経』などの大乗仏典には、経典の授受、読誦と並んで、写経の功徳が強調されている。
写経は、仏の教えを体得するための仏道修行でもある。かつて写経生や僧侶は、斎戒沐浴して身を清め、部屋を荘厳にして写経に臨んだという。しかし、初めて写経に取り組むときは、そうした厳しい作法に従うよりも、とにかくまず書いてみることが大切であり、習字の練習をするような気持ちで筆を取る方がよいようだ。とはいえ、仏の言葉であるお経を書き写すのであるから、一字一句を仏と思って心を込めなければならない。心静かに書き写していると、次第に気持ちが落ち着き、書き終えたときは非常にすがすがしい気分が味わえる。これこそ写経の功徳かもしれない。
私は冠婚葬祭業を営むうえで、各宗派のお経について勉強する義務があると思っている。まだ「般若心経」レベルであるが、今後はさまざまなお経を書き写して、仏の心というものを感じてみたい。