慈
「慈のマネジメント」~あらゆる生きとし生けるものに注がれる思いやり
「慈経」(メッタ・スッタ)というお経がある。仏教の開祖であるブッダの本心が最もシンプルに、そしてダイレクトに語られている、最古にして最重要であるお経である。上座仏教の根本経典であり、大乗仏教における「般若心経」にも比肩する。上座仏教はかつて、「小乗仏教」などと蔑称された時期があった。しかし、僧侶たちはブッダの教えを忠実に守り、厳しい修行に明け暮れてきた。「メッタ」とは、怒りのない状態を示し、つまるところ「慈しみ」という意味になる。「スッタ」とは、「たていと」「経」を表す。わたしは、縁あってこの「慈経」を自由訳することを試み、『慈経 自由訳』(三五館)を上梓した。サブタイトルは「安らかであれ 幸せであれ」である。
わたしは、「慈悲の徳」を説く仏教の思想、つまりブッダの考え方が世界を救うと信じている。「ブッダの慈しみは、愛をも超える」と言った人がいたが、仏教における「慈」の心は人間のみならず、あらゆる生きとし生けるものへと注がれる。生命のつながりを洞察したブッダは、人間が浄らかな高い心を得るために、すべての生命の安楽を念じる「慈しみ」の心を最重視した。そして、すべての人にある「慈しみ」の心を育てるために「慈経」のメッセージを残したのである。そこには、「すべての生きとし生けるものは、すこやかであり、危険がなく、心安らかに幸せでありますように」と念じるブッダの願いが満ちている。
この「慈経」という経には、わたしたちは何のために生きるのか、人生における至高の精神が静かに謳われている。人間の「あるべき姿」、いわば「人の道」が平易に説かれているのである。「足るを知り 簡素に暮らし 慎ましく生き」といった仏教の根本思想をはじめ、「相手が誰であろうと けっして欺いてはならぬ」「どんなものであろうと 蔑んだり軽んじたりしてはならぬ」「怒りや悪意を通して 他人に苦しみを与えることを 望んではならなぬ」といった道徳的なメッセージも説かれている。その内容は孔子の言行録である『論語』、イエスの言行録である『新約聖書』の内容とも重なる部分が多いように思える。
わたしは、『礼を求めて』(三五館)に続いて、『慈を求めて』(三五館)を書いた。儒教における「礼」とは人間尊重の精神だが、仏教における「慈」の心は人間のみならず、あらゆる生きとし生けるものへと注がれる。
『死が怖くなくなる読書』(現代書林)で、わたしが取り上げた「死」の本は、いずれも「人間の死」についての本であった。例外は、人魚の死を描いたアンデルセンの『人魚姫』、異星人の死を描いたサン=テグジュペリの『星の王子さま』だ。他にも、わたしは新美南吉の『ごんぎつね』が子どもの頃からの愛読書である。『ごんぎつね』は狐にまつわる童話だが、鶴にまつわる『つるのおんがえし』、鬼にまつわる『泣いた赤鬼』などの日本の童話も好きだった。それぞれ、最後には狐や鶴や鬼が死ぬ物語で、残された者の深い悲しみが描かれている。
当然ながら、異星人も人魚も狐も鶴も鬼も人間ではない。でも、彼らも人間と同じ「いのち」であることには変わりはない。人間の死に対する想いは「人間尊重」としての「礼」となる。そして、あらゆる生きとし生けるものの死に対する想いは「慈」となる。「礼」が孔子的だとすれば、「慈」はブッダ的であると言えるだろう。
「慈」という言葉は、他の言葉と結びつく。たとえば、「悲」と結びついて「慈悲」となり、「愛」と結びついて「慈愛」となる。わたしは、「慈」と「礼」を結びつけたいと考えた。すなわち、「慈礼」という新しいコンセプトを提唱したいのである。「慇懃無礼」という言葉があるくらい、「礼」というものはどうしても形式主義に流れがちである。また、その結果、心のこもっていない挨拶、お辞儀、笑顔、サービスが生れてしまう。
逆に「慈礼」つまり「慈しみの心に基づく人間尊重の形」があれば、心のこもった挨拶、お辞儀、笑顔、サービスが可能となる。わが社の経営理念の1つである「お客様の心に響くサービス」が実現するわけである。今後も、わたしは「慈礼」を追求していきたい。
最後に、わたしにとっての「慈」とは、月光のイメージであることを告白したい。
興味深いことに、ブッダは満月の夜に「慈経」を説いたと伝えられています。満月とは、満たされた心のシンボルにほかならない。『慈経 自由訳』には美しい満月の写真が登場するが、じつは「慈経」そのものが月光のメッセージであると思う。わたしは、ドビュッシーの「月の光」を聴きながら自由訳を行った。魂が清められるような思いがした。