病
「病のマネジメント」~人生に絶望なし!
だれでも病は苦しい。病院で医師から病気であることを告げられると、心は暗く落ち込む。ましてや、その病気が難病であれば、絶望の底に沈むだろう。病のままで人生を最後まで送る人もいる。病のために障害者として生き続ける人もいる。しかし、それでも、人は生きていく。
中村久子もそんな人だった。明治30年に生まれ、難病による両手両足の切断という重い障害を抱えながらも、72年の人生をたくましく生き抜いた人物である。
飛騨高山の貧しい畳職人の家ではあったが、久子は結婚11年目に生まれた子であり、両親の寵愛を一身に受ける。しかし、彼女が数えで3歳のとき、「突発性脱疽」という病気を患う。肉が焼け、骨が腐り、体の組織が壊れてしまうという難病だった。医師からは、「両足を切断しなければならない。だが、子どものことだから、命の保証はない」と宣告される。両親は「切らずに治してください」と医師にすがる一方で、父は藁をもつかむ思いで新興宗教に走る。久子の治療費と集会所へのお布施で、一家は貧困を極めていく。
ある日、久子のけたたましく泣き叫ぶ声に、母が台所から駆け込んでくると、白いものが転げていた。左手首がぽっきりと包帯ごと、もげて落ちていたのだ。母はあまりの驚きと悲しみのために気を失った。久子は病院に担ぎ込まれ、その月のうちに左手首、ついで右手首、次に左足は膝かかとの中間から、右足はかかとから切断された。その後、何度も手術を繰り返す。
そのうち、父が亡くなり、母も病気になる。生活苦から見世物小屋に自ら入り、「だるま娘」として23年間も好奇の眼にさらされた。それでも、障害者には他に生きる道がないため、じっと運命に耐えた。そして、自分の力で人生を好転させていく。独学で読み書きを覚え、本を読んで教養と精神性を高めた。
久子は生きる希望を絶対に捨てなかった。結婚や出産、そして育児までをも立派にこなした。両手がなくとも、料理も作り、裁縫までして生計を立てた。
「奇跡の人」として知られるかのヘレン・ケラーが来日して、彼女に初めて面会したとき、「私より不幸な人、そして偉大な人」と涙を流しながら言ったそうである。
晩年は全国を講演して回り、障害者をはじめ多くの病で苦しむ人々に勇気を与え続けた中村久子。彼女は「人生に絶望なし」と強調し、日常生活においては「いのち、ありがとう」を口癖とし、常に感謝の心を忘れなかった。ちなみに、久子が両手がないことで唯一の不便を感じたことは、神仏を敬うために、また感謝の心を表わすために両手を合わせて合掌ができないことだったそうである。
中村久子の壮絶な人生は、私たちに多くの勇気と知恵を与えてくれる。どうしようもない難関を前にしたときこそ、「いのち、ありがとう」という魔法の言葉によって「生」への感謝に集中することが大切だと思う。そんな極限状況こそ、人間としての腕の見せ所かもしれない。