福
「福のマネジメント」~幸田露伴の「幸福三説」
だれでも幸福になりたい。「幸福」こそ、人間にとって最大のテーマである。その「幸福」を求めて、これまで実に数多くの幸福論が書かれてきた。その中でもユニークな1冊が幸田露伴の『努力論』だ。人生の幸不幸をいろんな角度から検討し、どうすれば明るくのびやかな気分をもって生きることができるかを徹底的に論じている。
露伴といえば、漱石や鷗外と並び称せられる明治の大文豪であり、慶應義塾塾長の小泉信三をして「100年に一人の頭脳」とまで言わしめた巨人だが、その彼がわざわざこんな問題について書いたのには理由がある。この本を書いた明治末から大正初めの頃、事業の失敗や失業、貧困など、さまざまな外的原因によって自らを不幸だと思い込み、悩み、苦しみ、陰惨な思いに沈んでいる人があまりにも多く、それを見かねた露伴が「気の持ちよう次第で人はいかにも明るくのびやかに生きられる」というメッセージを伝えたかったからだというのだ。
露伴は「どうすれば人は必ず幸福になれるか」というスタイルの幸福論は不可能であると考え、「どういう心がけで生きれば、不本意なことが多い世にあって人生を肯定的に生きられるか」を説いたのである。ゆえに『幸福論』ではなく、『努力論』なのである。
さて、幸福を引き寄せるために、露伴は「幸福三説」なる三つの工夫を述べている。
第一は、「惜福」である。これは、福を使い尽さないこと。「たとえば掌中に百金を有するとして、これを浪費に使い尽して半文銭もなきに至るがごときは、惜福の工夫のないのである」と露伴はいう。炭火に灰をかけて長持ちさせるのが惜福なのである。
第二は、「分福」である。露伴によれば、恵まれた福を分かつことは、春風の和らぎ、春の日の暖かみのようなものであるという。春風はものを長ずる力であり、暖かさでは夏の風にはかなわないが、冬を和らげ、みんなを懐かしい気持ちに誘うことができる。それと同じように、福を分かつ心を抱いていると、その心を受けた者はやすらかな感情を抱くものである。分福をあえてなす者は周囲に和やかな気を与えることができるのである。
そして第三は、「植福」である。リンゴの木があったとして、なるがままに実を実らせて食べるのもいいが、木を傷めないように枝を詰めれば、長く実りが得られる。これが惜福だ。
しかし、それだけではいつかはリンゴの木は枯れてしまって、実りは得られなくなる。リンゴの木がまだ花を咲かせ、実をつけているうちに、種を播き、接ぎ木をし、新しいリンゴの木を育てておく。それを自分の子孫が食べる。これが植福である。一人の植福がどれだけ社会全体の幸福にするか計り知れない。植福において、個人と社会の福がつながるのである。
露伴は、福とは天に向かって矢を放った状態であると考えた。矢は必ず落ちてくる。つまり、そのままにしておいては福はなくなる。福をなくさないためにも、さらには福を増やすためにも、「惜福」「分福」「植福」の三つの工夫から学ぶところは大きい。