平成心学塾 経営篇 人は、かならず「心」で動く #112

「自のマネジメント」~「自由」を手にするには、私心を捨てる

 

坂本龍馬は幼少のとき、コンプレックスの塊であったという。自分は頭が悪いと信じていたのである。これは子どもの頃の塾の先生によって植えつけられた。先生が龍馬の物覚えの悪さに驚き、「とても預かることができない」と教授を断ってきたほどだった。
龍馬の器量は、なまじの教師ではとても推し量ることができなかったわけだが、このとき少年の心には劣等感が芽生え、周囲の軽蔑の視線が痛いほど突き刺さってきた。
龍馬は「自力」でそこから脱出してゆく。その方法は明快だった。14歳から剣術を学んだが、そこで頭角を現したのである。自分には何一つできないと思っていた少年がはじめて一つのことに夢中になった。一生懸命に稽古すればするほど上達することで、達成感を得た。それで「自信」を取り戻し、顔つきまで変わっていったのである。
ひとたび自信を得た龍馬は、18歳のとき、「世の中の人は何とも云わば云え、わがなすことはわれのみぞ知る」という歌を詠んでいる。かつて劣等感に苦しんだ少年が、これほど自信に満ちあふれた若者に成長したのだ。
しかし、剣という一芸で秀でた人間は、その一芸の固執することで「自家中毒」になる幣に陥りやすい。龍馬は意識してそれを避け、狭量になることを防いだ。自分の芸によって身動きがとれず時代遅れの頑固者になることを怖れ、秀才だった親友の武市半平太に学問を習った。
武市は中国の史書『資治通鑑』を薦めた。まずは読み方から始めたが、龍馬の読み方は目茶苦茶だった。しかし、意味を尋ねると、しっかり把握していたという。同じような話が蘭学をかじったときにもあった。オランダ語の法律書を十分に読めないのに、先生の間違いを的確に指摘したのである。龍馬について司馬遼太郎は、人について学ぶ型であるよりも「自得」するタイプだったと述べている。
そして、龍馬ほど「自」にこだわらなかった人物はいない。つまり、私心がなかった。
そのことは、明治維新の最大の功労者であるのにもかかわらず、閣僚名簿に自分の名前を加えなかった事実が何よりも示している。龍馬は、これからの相手を日本ではなく世界としたというが、それにしても、あまりの無欲ぶり。
これには、あの度量の大きな西郷隆盛でさえ驚き、二の句がつげなかったという。世にリーダーと呼ばれる人は多いが、どちらかというと自己主張の強い目立ちたがり屋が多いように思う。こうした中で、龍馬は異能のリーダーだと言えるだろう。結局、龍馬はどこまでも「自由」な人だった。
坂本龍馬は大いなる「自」の人であった。見習いたいものだ。