平成心学塾 経営篇 人は、かならず「心」で動く #054

「誠のマネジメント」~つねに誠心誠意を心がけて生きる

 

新撰組はその組旗に「誠」の一字を入れ、吉田松陰は「至誠」を座右の銘とした。
誠とは何か。四書のひとつ『中庸』には、「誠は天の道なり。これを誠にするは人の道なり」と説かれている。誠とは、天が定めた道である。だから誠を身に備えることは、人としてのあるべき道である。
誠という字は「言」と「成」からできている。何かを志し、それを述べることを言といい、それを行なうことを成という。述べて行なわなければ誠ではない。中国でも日本でも同じである。誠の道はこれによって向上するものであり、達すると誠の極みで、これを「至誠」と言う。人が誠に至れば神と感応し、万事ことごとくうまくいく。中村天風によれば、わが国の大和魂、孟子の浩然の気、文天祥の正気は、言葉は違うけれども至誠と同じことであるという。
加藤清正は、誠の人であったという。文禄4年に京都で大地震があり、秀吉の伏見城も壊れて、多くの死者も出た。このとき、清正は秀吉の勘気を受け謹慎の身であったが、「たとえ後で罪を得ても座視しているわけにはいかない」と、ただちに家来を引連れてかけつけ、秀吉の警護に当たった。その誠実な働きには秀吉も感激し、怒りもとけて、再び重用されるようになった。
清正はその晩年に、「自分は一生のあいだ、人物の判断に心を尽くし、人相まで勉強した。でも、結局はよくわからなかった。ただ言えるのは、誠実な人間に真の勇者が多いということだ」と言ったという。これは彼自身が多くの部下を用いた経験上での結論だろうが、同時に自分自身がまた、誠実を通した人でもあったのだ。秀吉の死後、天下の人心がみな家康になびくなかで秀頼を守り続けた。二条城での家康と秀頼の会見にも命がけでつきそっていくなど、終生、秀吉の恩顧を忘れず、ひたすら豊臣家の安泰のために尽くした。さすがの家康もその誠忠ぶりには感嘆を惜しまなかったとも言われている。
松下幸之助は、この清正の生き様について、結局、誠実な人はありのままの自分というものをいつもさらけだしているから、心にやましいところがないのだと評価している。そして、事業でも政治でも、指導者はつねに誠心誠意ということを心がけなくてはならないと述べている。PHP研究所社長の江口克彦氏によれば、松下幸之助自身がまさに誠実の人そのものであったそうだ。そして、「誠実」と「熱意」と「素直な心」の三つが松下が成功した理由だという。この三つは成功へのトライアングルなのである。