許
「許のマネジメント」〜管理の極意は温かく許すこと
私は、徳川家康という人があまり好きではない。豊臣家を滅ぼす経緯にアンフェアな印象があるためだが、幼少より苦労を重ねたせいか、包容力があってよく人を許したらしい。
あるとき、本多正信が「ある小身者がこのようなものを持って参りました」と言って、その者が書いた意見書を差し出した。家康は、「お前が読んでみろ」と言い、かなり長い箇条書きの意見書を正信に読ませた。
読み終わった正信は腹を立て、「この馬鹿者め。長い文章を書いてはきたが、一つも役立つものはないではないか。いや、お忙しいところをとんだお邪魔をいたしました。さぞかしご不快でございましたでしょう。お詫びをいたします」と言った。家康は、正信がその小身者を罰するであろうと思い、こう言った。「決してその者を咎めるではないぞ。一所懸命書いてきたのだ。たとえ、一つも役立つ意見がなくても、その者がそれなりに、俺への真心を示したのだ。それを大切にしよう。能がなくてもひたむきに考え、それを俺に届けようという心根はあっぱれだ。褒美をやれ」と言った。正信は、しばらく家康を見つめていたが、「そう致します」と言って、改めて家康の大きな心に感動したという。
また大坂の陣のとき、豊臣秀頼の依頼で、伊勢の禰宜たちが家康を呪った。陣が勝利に終わると、このことを訴え出た者がいた。これを聞いた家臣たちは「けしからぬ奴等です。厳しく罰しましょう」と言ったが、家康は「まあ、待て」と言って、伊勢の禰宜たちを呼び出して、「聞けば、その方たちは秀頼殿の依頼を受けて俺を呪詛したそうだが、例えば、俺が金を出せば秀頼殿を呪うか」と聞いた。禰宜たちは「お金を頂ければ、秀頼様を呪います」と答えた。これを聞くと家康は「禰宜たちを許してやれ。金によって動くものは罰するには価しない」と大きく笑い、禰宜たちが去ると、家臣たちに「お前たちのように、たかが禰宜の呪いあたりに振り回されるようでは、到底天下は取れないぞ」と言った。家臣たちが大いに恐縮したのは言うまでもない。
この他にも夏目信次の過去の過ちを許した話など、家康の包容力にまつわるエピソードは多い。人を許すという行為は、許した人間の評判を良くする。許された人が、その人のことを周囲に良く言うからである。家康は許せるものは許した。許すことによって、その者を、そして周囲の者を味方にした。「この殿様のためには命を捨てても惜しくない」と思わせ、「家康公のためには、力の限りを尽くそう」という者を増やしていったのである。