敵
「敵のマネジメント」〜ライバルの存在が真の実力を作る
ドイツの哲学者ニーチェは「汝の敵には嫌うべき相手を選び、軽蔑すべき相手を決して選ぶな。汝は汝の敵について誇りを感じなければならない」と言い、フランスの詩人ヴァレリーは「われわれの敵はわれわれに活気をつけてくれる」と語った。どんな世界にしろ、一流の人間になるためには尊敬できるライバルの存在が不可欠と言われる。
日本の戦国時代には、上杉謙信が武田信玄と14年にわたって戦っていた。合戦さなかに信玄の死が伝えられると、謙信は食べていた箸を取り落として「敵中の最もすぐれた人物」を失ったとさめざめと泣いたという。そして、家臣たちが「今、武田を撃てば勝てる」と浮き足立つのを、「人の落ち目を見て攻め取るのは本意ではない」と戒めた。
この謙信は、川中島で何度も激闘を繰り広げた信玄に対して終始気高い見本を示したことで知られる。信玄の領地は、海から隔たった山間の甲州であった。彼は塩の供給を東海道の北条氏の所領に仰いでいた。北条氏康はそのころ、あからさまに信玄と戦っていたわけではなかったが、信玄の勢力を弱めたいと願っていたので、この重要な物資の供給を断ってしまった。謙信はその敵である信玄の窮状を聞き、自領の海岸から塩を得ることができるので、これを商人に命じて価格を公平にした上で分けてやった。有名な「敵に塩を送る」の故事である。
謙信はもともと熱心な仏教信者だったが、それだけに大将としての権謀術数ぶりもさることながら、戦い方は情け深く公平で、相手の非に付け込まなかったという。それはまさに、江戸時代に確立する武士道の源と言える。
徳川家康も、敵である信玄が陣中に没したと聞いたとき、「まことに惜しい人を亡くしたものだ。信玄は古今の名将で、自分は若い時からその兵法を見習ってきた。いわば私の師とも言える。その上、隣国に強敵があれば、政治でも軍事でも、それに負けないようにと心がけるから、自分の国もよくなる。そういう相手がいないと、つい安易に流れ、励むことを怠って弱体化してしまう。だから、敵ではあっても信玄のような名称の死は、まことに残念であり、少しも喜ぶべきことではない」と家臣に言ったという。
家康といえば「海道一の弓取り」と言われたように、戦の名手で、ほとんど戦って負けを知らない武将だった。秀吉でさえも、小牧・長久手の合戦では、局地戦において一敗地にまみれている。その家康にして完敗したのが武田信玄であった。三方ヶ原の合戦がそれで、両軍の軍勢にも差があったとはいえ、名人芸のような信玄の戦いぶりの前に、善戦むなしく家康自身が九死に一生を得るといった姿で打ち破られたのである。その直後に強敵が突然に死んだのだから、手を打って喜びたいところである。しかし家康は、そんな目先のことではなく、もっと大きな観点から、信玄を自分の真の実力を鍛えてくれる師ととらえ、だから信玄のような相手がいてくれることが、自分の長久の基礎を作るためには必要だと考えたわけである。
信玄という武将、よほど敵からも一目置かれていたようだが、彼について詳しく描いた『甲陽軍艦』には、「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」とか「人の使いようは、人を使わず、わざをつかう」などの有名な語句とともに「敵の悪口はいうな」が信玄の言葉として紹介されている。
なぜ、敵の悪口を言ってはいけないのか。敵とはそもそも相容れない相手であって、ののしりあうのは当然とまでは言わないにしても、いたしかたないのではないか。
そこには、まず、敵をののしることで相手を憤慨させ、逆に相手を強大化させてしまうといけない、という計算も含まれているかもしれない。しかし、その根本には、信玄と謙信の間にあるような互いへの尊敬の念こそが、武士の戦いには必要であると考えていたのではないか。
また信玄の日頃のそういった考え方が謙信の心に届き、塩の一件や、信玄死去の際の慟哭につながったように思う。徹頭徹尾、フェアプレイ精神に生きた謙信に比べ、家康はその晩年に代表されるようにアンフェアな印象がある。「国家安康、君臣豊楽」の文字を徳川家への呪いの言葉とした方広寺梵鐘の鐘銘事件は前代未聞の言いがかりだし、それによって大坂冬の陣を強引に起こした。大坂方との和解によって冬の陣が終わった後も、詐欺まがいの手口で大坂城の内堀を埋めたところなど、当時の家康はまるで暴力団の親分そのものである。
しかし、その家康でさえ、信玄の日頃の考え方には敬意を表していた。後の徳川幕府において儒学が取り入れられ、武士道が完成するが、それには信玄の思想も影響していたのではないだろうか。
また家康は、大坂冬の陣に続いて大坂夏の陣を仕掛け、ついに豊臣家を滅ぼした。そのとき、大坂方の真田幸村軍は一人も降参せず壮烈な最期を遂げた。幸村の首実験を行なった際、居並ぶ武将たちの前で家康は敵である幸村を褒めたたえ、その頭髪を抜いて「幸村にあやかれよ」と武将たちにとらせたという。
私は、同業他社であっても良い点はどんどん素直に学ぶことを心がけ、社員にもそう勧めている。また、どんなにいわれのない誹謗中傷を他社から受けても、法的手段に出ることはあっても、絶対に相手の悪口は言わないように決めている。そんな会社はいずれ自滅することがわかっているからである。