平成心学塾 経営篇 人は、かならず「心」で動く #141

「香のマネジメント」~魔法の絨毯にして、あの世からの贈り物

 

人類は昔から「香り」の持つ不思議な力に気づき、それを重んじてきた。古代中国の殷では、天を喜ばせるために香を焚きました。古代エジプトでは乳香を神に捧げ、イスラエルでは東方の三博士が幼な子イエスに乳香を与えている。しかし、いわゆる人類の「香り文化」は、およそ4000年前の古代インドに端を発すると言われる。大昔から豊かな芳香植物に恵まれていたインドでは、香料は人々の生活に溶け込んでいた。インド神話には、ガンダルバという香りを食べる神様も登場するほどだ。
そのインドで生まれた香り文化は、西へ東へ旅をした。インドから西に伝わった香りは液体となり、その頂点は香水文化を花開かせたフランスである。いっぽう、東に伝わった香りはお香、線香などの固形物となり、その頂点は香り文化を「香道」という芸道にまで高めた日本である。フランスの香水文化も、日本の香道文化も、ともに源流は古代インドにあったのだ。フランスを頂点とする西の香り文化を育てたのは悪臭だったが、日本を頂点とする東の香り文化を育てたのは、祈りであり、癒しであり、すなわち人間の「こころ」であった。
古代インドから東へ旅をはじめた香文化は、広大な中国大陸を経て、さらには海を越えて、極東の国である日本にやって来た。その間、香の素材となる香木を刻んで火で焚くなど、固形物を燻らせて空気中に香りを広げる形で伝わったが、日本においては精神論も加わった「香道」として確立された。「香りは文化のバロメーター」などと言われるが、日本ほど「香り」というものに価値を与えた国民はいない。そのシンボルこそが「香道」である。その原型は、室町時代に形成された。
足利尊氏が室町幕府を開いたことによって、都が鎌倉から再び京都に戻ってきた。この時代、武士が国を治めながらも拠点は京都に置くことによって、平安時代の「雅な和の文化」と鎌倉時代の「武家の文化」が融合され、新しい日本文化の息吹がめばえた。
そのシンボルとなる人物が八代将軍の足利義政である。銀閣寺を建てたことで知られる義政は、文化にも大きな理解を示し、彼の時代に茶の湯、生け花、そしてお香などが体系化されていった。それぞれが武士の精神的支柱となる禅などとも結びつけられ、後の茶道、華道、香道に発展する原型が作られたのである。特に茶道と香道は強く関連づけられ、「茶人すなわち、香人でもある」と言われたそうだ。
現在、香道は茶道、華道と並んで、日本の三大芸道の1つである。「芸道」は芸能や技能を日本独自のかたちで体系化したものだが、三大芸道の他には、有職故実、礼法、能楽、歌舞伎、人形浄瑠璃、邦楽、書道などが代表的なものだ。
「芸道」という言葉そのものは新しく明治時代に生まれた。講道館の嘉納治五郎が柔術を「柔道」に革新したことによって、剣術も剣道になるなど、武術全般が「武道」という言葉に統一された。その影響を受けて、茶の湯が「茶道」になり、生け花が「華道」になるという事態が相次ぎ、これらを総称するために「芸道」という造語が生まれたのである。
香道は、徹底的に香りをたのしみ、心を非日常の世界に遊ばせることを目的とした芸道である。一定の作法のもとに香木を炷き、立ち上がる香りを鑑賞するものだが、「聞香(もんこう)」あるいは「香あそび」という言葉も使われた。
『日本書記』によれば、推古3年(595年)の夏、淡路島に一本の香木が漂着した。島人たちはただの流木と思って火にくべたところ、たとえようのない芳香が立ち上った。仰天した人々は、それを畏れ、推古天皇に献上すべき大和の都に運ばれたという。これが香道の歴史の始まりとされている。
わたしは火と水に人類の謎があるような気がしてならない。人類がどこから来て、どこへ行こうとしているかの謎を解く鍵があるように思う。もともと世界は水から生まれた。しかし、人類は火の使用によって文明を生み、文明のシンボルとしての火の行き着いた果てが核兵器であった。しかし、自動車もパソコンもケータイも、すべては火の子孫である。もはや、人類は火を捨てて生きていくことはできない。
人類には火も水も必要なことを自覚し、智恵をもって火と水の両方とつきあってゆくしかないのである。人類の役割とは、火と水を結婚させて「火水(かみ)」すなわち新しい「神」を追い求めていくことだと思う。これからの人類の神は、決して火に片寄らず、火が燃えすぎて人類そのものまでも焼きつくしてしまわないように、常に消火用の水を携えて行かねばならない。
そんな人類の「火水(かみ)を追い求めていたわたしだが、『香をたのしむ』(現代書林)の執筆中に「香水香」というものを知り、まさにそのシンボルになるのではないかと思った。古代インドから4000年をかけた香の旅は、東はお香、線香といった固形物に火をつける「火」の文化となった。また、西では錬金術などを経て液体そのものを香らせるという「水」の文化となった。果てしない旅路の末に、二つの「火」と「水」の香文化は奇跡的な再会を遂げた。その場所は日本の東京は日比谷。時は明治。日比谷の元薩摩藩装束屋敷跡に、東洋が西洋を追った夜会の館が誕生した。鹿鳴館である。鹿鳴館に集った西洋婦人たちが身につけたフローラルな香水の香りと、平安時代より1000年以上を受け継ぎ大切にしてきた日本女性の雅な薫衣香が、ともに漂った。西の香りと東の香りが交じり合い溶け合う、まるで魔法のような舞踏会が夜毎に繰り広げられたのである。
ここで、奇跡のような香りが生まれた。鹿鳴館の誕生から25年を経て、大阪の堺で鬼頭勇治郎という若者がその奇跡を起こした。日本の伝統であるお香の技術で、西洋の香水のフローラルな香りを出すことに成功したのである。そのお香の名は、「香水香 花の花」。「西と東」そして「火と水」の香文化は、4000年ぶりに再会を果たし、四半世紀もの愛を育んだ後に、ついに結婚したのである。
4000年前の古代インドで生まれた香を精神文化にまで高めたのは日本だった。香は聖徳太子によって仏教とともに発展し、多くの日本人の祈りの場で使われ、死者との交流を助けてきた。また、信長、秀吉、家康といった天下人をめざす者たちの最高の宝ともなった。
人の心を安らかにし、それを嗅ぐだけで、あたかも龍の背中に乗って翔ぶがごとくに、空間も時間も超えてどこにでも連れていってくれる香。この世とあの世との間に通路を開いてくれる香。まさに、魔法の絨毯にして、あの世からの贈り物。こんなすごいものが、どこにあるだろうか。