平成心学塾 経営篇 人は、かならず「心」で動く #134

「癒のマネジメント」~ブッダに学ぶ究極の癒し

 

「癒し」が時代のキーワードになっている。古代のシャーマンやイエスの病気治しに見られるように、「癒し」は人類史において文化を超えて古来から存在する表現である。しかし日本では、阪神大震災後に被災者の心のケアという意味で「癒し」の言葉が頻繁に使われたことから一般的になったとされている。
もちろん震災で遭遇したさまざまな恐怖のトラウマもあるが、被災者の最大の心の痛手は家族や友人・知人を震災で失ったことにあった。人間の心が最も悲鳴をあげるとき、それは愛する肉親や親しい人を亡くした時に他ならない。私は、多くの葬儀に立ち会ってきた中で、次のように思い至った。
親を亡くした人は、過去を失う。
配偶者を亡くした人は、現在を失う。
子どもを亡くした人は、未来を失う。
恋人や親しい友人・知人を亡くした人は、自分の一部を失う。
「失う」ということは、また「発見する」ということでもある。配偶者を亡くした人は立ち直るまでに平均3年を要し、わが子を亡くした人は10年を要するという。愛する者を亡くした時、それはまさに人間の心が最も「癒し」を必要とする非常事態であり、そのための「癒し」の装置として葬儀というものはあるのだろう。
通夜、告別式、その後の法要などの一連の行事が、遺族にあきらめと訣別をもたらしてくれる。愛する者を失った遺族の心は不安定に揺れ動いている。そこに儀式というしっかりした「かたち」のあるものを押し当てて、「不安」をも癒すのである。
もちろん、通夜や告別式に参列し、悲しんでいる人に慰めの言葉をかけてやることは必要だ。しかし、自分の考えを押しつけたり、相手がそっとしておいてほしいときに強引に言葉をかけるのは慎むべきである。ただ、黙ってそばにいてやるだけのほうがいいこともある。一緒に泣いてやることがいいこともある。
ブッダには、こんなエピソードがある。
シュラーヴァスティーの町で、キサーゴータミーという女性が結婚して男子を産んだが、その子に死なれて気が狂った。死体を抱きしめながら蘇生の薬を求めて歩きまわる彼女の姿を見て、ブッダは、「まだ一度も死人を出したことのない家から芥子粒をもらってくるがよい。そうすれば、死んだ子は生き返るであろう」と教えた。一軒ずつ尋ねて歩いているうちに、死人を出さない家は一つもないことを悟った彼女はついに正気に戻れたという。
ブッダは彼女を無理やり説き伏せたりせず、彼女自身に気づかせた。自然なかたちで彼女の心を癒したのだ。これこそ、究極の「癒し」ではないかと、私はいつも思うのである。