平成心学塾 経営篇 人は、かならず「心」で動く #074

「裕のマネジメント」~日頃の心のゆとりが勝敗を決する

 

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康は、しばしば比較の対象にされる戦国の三大英雄だが、このなかで一番驚異的な人物は秀吉である。
なぜなら、信長や家康は大将になるべき家に生まれてきたが、秀吉は身分制度の厳しい時代に農民出身の一介の足軽から身を興して、才覚と努力だけで成り上がったからである。
主君である信長のために必死に駆け回り、最後には織田政権の後継者、そして天下人になった。しかし、秀吉が遊ぶことも、休むことも忘れて、仕事一筋に生きたわけではない。
酒好きで話し上手だったので、彼の家来たちは主君と楽しく過ごしながら仕事にいそしんだ。秀吉は「人たらし」と呼ばれるほど、人を使うのがうまかったのである。
しかも大事な勝負どころを押さえ、そこで常人が思いつかないような軍略によって勝利を得る。本能寺の変の直後の中国大返しで明智光秀を倒した話、美濃の斎藤攻めにおける墨俣の一夜城の話や、賤ヶ岳の戦いで思いもよらぬ奇襲によって柴田勝家らを破った話などがよく知られている。
天正18年(1590年)に北条家の小田原城を攻撃したとき大がかりな包囲戦となって、陣が長引いた。このとき、秀吉の側近が、ある大名は芸事にうつつを抜かし、ある大名は土を耕して青菜を植えさせていると報告し、見せしめに厳しく罰することを主君に進言した。しかし、秀吉は、「あの連中は、ゆとりをもって戦場に臨んでいるのだ」と笑い飛ばした。そして、家来たちに「日頃から武芸を磨くのはよいが、合戦一途に生きるべきではない」と語りかけ、「戦場でゆとりのある武士を誉め讃えよ」と続けた。
これを聞いて、秀吉の家臣たちは主君が戦場で殺気だっていたことは一度もなく、陣中では笑い声が絶えなかったことを思い出した。命をかけた戦場で、秀吉はいつも最前線に近い位置に座り、側の者に酒入りの大きなひょうたんを持たせていた。そして、手柄を立てて戻ってきた者がいると、秀吉自らがそのひょうたんを持って酒をふるまったのである。
上杉謙信も、ゆとりのある武士だった。川中島の戦いは、8000の兵力の上杉勢と2万人の武田勢とのにらみ合いになった。明らかに不利でも、謙信はうろたえてあれこれと策を出してくる部下の言葉に耳を貸さず、鼓を打ったり謡曲を唄ったりしていたという。そのため、信玄がしびれを切らして先に動いた。そして、謙信は武田方の作戦の裏をかき、信玄の本陣を急襲して多くの敵を倒した。
心にゆとりを持つ者が勝利を得るのである。