マンスリーメッセージ サンレーグループ社員へのメッセージ 『Ray!』掲載 2025.10

死者へのコンパッションは  生者のウェルビーイングだ!

●リメンバー・フェス
 8月に続いて、9月も死者と関わりの深い月となりました。6日夜、北九州市八幡西区折尾のサンレーグランドホールで、秋のイベントが盛大に開催されました。
 一昨年までは「隣人祭り・秋の観月会」という名称でしたが、昨年からは「リメンバー・フェス」としてアップグレードしました。ただし、昨年は父である佐久間名誉会長が緊急搬送されたため、参加できず。その3日後に父は旅立ったのでした。
 リメンバー・フェスは「秋祭り」と言いたいところですが、まだまだ気温が高くて「夏祭り」といった印象です。
 夏祭りといえば、「盆踊り」の存在を忘れることはできません。日本の夏の風物詩ですが、もともとはお盆の行事の一つとして、ご先祖さまをお迎えするためにはじまったものです。今ではご先祖さまを意識できる格好の行事となっています。
 盆踊りというものは、生者が踊っている中で、目には見えないけれども死者も一緒に踊っているという考え方もあるようです。照明のない昔は、盆踊りはいつも満月の夜に開かれたといいます。
 その意味で、このリメンバー・フェスでの盆踊りは正統なのです。

●月への送魂
 この日、わたしは浴衣を着て盆踊りの櫓の上にあがって、主催者挨拶をしました。すると、MCから「社長、この後は“月への送魂”も行っていただけると伺いましたが?」の言葉がありました。そう、盆踊りの後に行われるのが、フェスの“クライマックス”とも言えるセレモニー、「月への送魂」です。
 今年は、佐久間進名誉会長と今年5月30日に帰幽した鎌田東二先生の御霊を「月への送魂」で月に送りました。挨拶では、「会場にいらっしゃるみなさまへ、お願いです。どうか今、この場で、あなたにとって大切だった人を、心の中でそっと思い浮かべて下さい。皆さんの想いは光となって、夜空に放たれます。きっと、月の向こうにいる“あの人”に届くと信じています」と述べました。
 レーザー(霊座)光線が夜空の月に到達すると、満場のお客様から盛大な拍手が起こりました。わたしは佐久間名誉会長と鎌田先生の遺影を持ちながら、天上の月に霊座が到達している光景を眺めました。

●かまたまつり
 9月13日、京都府亀岡の大本本部にある「みろく会館」で、わたしが葬儀委員長を務める鎌田東二百日祭「かまたまつり」が開催されました。わたしが敬愛してやまない出口王仁三郎聖師の教えを守る総本山において、わが「魂の義兄弟」の百日祭が開かれ、まことに感無量であります。
 「かまたまつり」は、鎌田先生ご自身が生前に「自分の死後は“かまたまつり”と呼ぶまつりをやってほしい」と語られていた構想を、遺言としてわたしたちに託されたものであります。わたしは鎌田先生より、葬儀委員長の大役を仰せつかりました。
 わたしは最初に奉辞を読み、「鎌田先生、お見事な人生でございました!」と述べました。最後は、鎌田先生が好きだった「まつり」を熱唱し、「これが鎌田のまつりだよ~♪」と叫びました。魂が震えました。一人で「礼楽」を実行した区分でした。

●一周忌と墓石開眼供養
 9月20日、父の一周忌法要が菩提寺である黄檗宗の広寿山福聚寺で行われました。今日は六輝が大安で、さらに大明日と母倉日が重なった大大大吉日だそうです。さすが、佐久間進は”ミスター冠婚葬祭”です。心配していた雨も上がりました。さすがは‟太陽を追う男”です。
 一周忌法要は、佐久間家の菩提寺である広寿山福聚寺の本堂で10時から執り行われました。パイプ椅子に座ったわたしたち家族は、昨年9月20日に亡くなった父の冥福を祈りました。30分ほどの読経と焼香後、集合写真を撮影しました。
 一周忌法要の後は、新しく建之した墓を開く儀式を行いました。「墓石開眼供養」です。「開眼供養(かいげんくよう)」とは、新しく仏壇、位牌、お墓などを購入・建立した際に、僧侶を招いて読経してもらい、魂を込める法要です。この儀式により、それらは単なるモノから仏様や故人の魂が宿る供養の対象となります。墓石開眼供養の後は、父の遺骨を納める「納骨式」を行いました。

●親の葬儀は人の道
 葬儀は人類の存在基盤です。古今東西、人が亡くなって葬儀をあげなくてもいいと考えた民族も宗教も国家も存在しません。もし、日本に「葬式は、要らない」とか「葬式消滅」とかの考えが存在するのなら、それは人類史から見て現在の日本人が異常なのです。
 「親の葬儀は人の道」というのはわたしの信条ですが、孔子が開いた儒教では、親の葬儀をあげることを「人の道」と位置づけました。その後、孟子は、人の道を歩むうえで一番大切なことは、親の葬儀をあげることだと述べています。
 史上最高の哲学者と呼ばれるドイツのヘーゲルも、孟子と同様の主張を述べ、「親の埋葬倫理」ということを説いています。わたしは「人の道」を踏み外すことはありませんでした。もちろん父を亡くした喪失感はありますが、一方で最大の務めを果たしたという満足感もあります。
 葬儀にはじまる一連の死者儀礼を無事に終えて、わたしは大きな安心感に包まれました。それは幸福感といってもよいでしょう。そう、死者へのコンパッションは生者のウェルビーイングとなるのです。
 今月の各セレモニーでは、サンレーグループのみなさんにも協力いただき感謝に堪えませんが、わが社の儀式力は一段とアップグレードしたように思います。

 亡き人を忘れず偲ぶ生き方は
  心安らか幸せな日々  庸軒