紫雲閣は孔子の末裔 サンレーの商品は『人の道』
私はもうすぐ、今度の5月10日で40歳になります。不惑の年を迎えるにあたり、何をすべきかといろいろ考えたところ、「不惑」という言葉が『論語』に由来することを思い出し、『論語』を精読することにしました。
学生時代以来久しぶりに接する『論語』ですが、一読して目から鱗が落ちる思いがしました。現在の私が社長として、また、個人として抱えている諸々の問題の答えがすべてここにあるように思えてならない。『論語』一冊あれば、他の書物は不必要ではないかとさえ思える。私はこれまでも多くの本を読んできたつもりですが、40を目前にしてついに究極の一冊とめぐりあったのです。
そこで40になる誕生日に『論語』を40回読むことに決めました。それだけ読めば内容は完全に頭に入りますので、以後は誕生日が来るごとに再読します。つまり、私が70歳まで生きるなら70回、80歳まで生きるなら80回、『論語』を読んだことになります。何かの事情で私が無人島や刑務所に行かなくてはならない時には迷わず『論語』の文庫本を持っていく。こうすれば、もう何も恐くない。何も惑わない。何のことはない、私は「不惑」の出典である『論語』を座右の書とすることで、実際に「不惑」を手に入れたのです。
『論語』の精読と並行して、『孟子』『大学』『中庸』といった四書五経や他の儒教書も読みましたが、驚くべき事実に遭遇しました。『論語』『孟子』をはじめ、儒教の書物には葬式のことばかり出てくるのです。『礼記』や『儀礼』『周礼』『孝経』などは、ほとんど葬式のことだけです。
なぜかというと、孔子の母親がもともと葬祭業者であり、原儒と呼ばれる古代の儒教グループは、葬送のプロフェッショナル集団だったからです。孔子は母の影響もあって、「葬儀ほど人間の尊厳に関わる素晴らしい仕事はない。これほど尊い仕事の社会的地位を向上させなければならない」という志を抱いていたようです。
儒教はよく、古臭い倫理道徳の話と誤解され、宗教性は薄いと思われているようです。しかし、本当は儒教ほど宗教らしい宗教はありません。宗教には大きく分けて道徳性と宗教性という二つの要素がありますが、仏教やキリスト教などはほとんど道徳性の強い宗教となっています。
では、宗教性とは何か。これは宗教の本質に関わることですが、一言で言って、「死と死後の説明者」であることだと思います。そして、「いまだ生を知らず、いずくんぞ死を知らん」という『論語』の一文によって誤解されているけれども、儒教ほど死と死後について説明してくれる宗教はありません。それは、仏教・キリスト教・イスラム教といった諸宗教の比ではい。
儒教における死と死後への関心の深さは、膨大な葬式に対する理論によく表れています。儒教で最も重要とされるコンセプトは「礼」ですが、これはマナーというよりもモラル、平たく言うと、「人の道」です。そして、人の道を歩む上で最も大事なことは、親の葬儀をきちんとあげること。孟子は「人生の最大事は親の葬礼なり」と語っています。二番目に大事なのは結婚で、三番目が出産です。
祖先の祭祀と子孫の繁栄を何よりも重んじる儒教の世界観は「孝」という一文字に集約されますが、これは現代科学の「DNA」にも通じるコンセプトだと思います。
沖縄県は「守礼之邦」というように儒教の影響の強いところですが、日本有数の長寿県であることはよく知られています。沖縄料理も健康という面から注目されています。しかし、徳洲会理事長の徳田虎雄氏によると、沖縄の人が長生きで、しかも元気なのは、食生活のせいだけではなく、子や子孫のことを考え、あれこれ心配し、自分ががんばらなければという責任感があるせいだということです。儒教の精神は、「家」を守るという役割と、年長者に対する敬意を強く意識づけます。
儒教の影響は中国・朝鮮・日本といった東アジア全域に広く及んでおり、そこに住む人々の生活習慣や考え方にも表れています。現在の日本の葬儀も、実は仏教というよりは儒教の影響が強い。紫雲閣の葬祭ディレクターは、葬送の徒であった孔子の精神的末裔です。日々、紫雲閣で営まれる多くの葬儀とは、釈迦の末裔たる僧侶と孔子の末裔たる葬祭ディレクターとの仏儒合同儀礼なのです。
そして、サンレーの商品とは「礼」、すなわち「人の道」です。サンレーの互助会に入ってさえおけば、親が亡くなっても立派に葬儀をあげることができるからです。もし、解約などして、親の葬儀をあげることができなければ、その人は「人の道」から外れてしまう。こんなに気の毒なことはありません。ですから、相談室やSPが解約を防止するのはサンレーのためでも何でもなくて、実は「人助け」なのです。そして、営業所のみなさんは、「人の道」というこの世で最も価値のある商品を売っているのです。