マンスリーメッセージ サンレーグループ社員へのメッセージ 『Ray!』掲載 2024.07

仏教の第一人者と対談 「むすんでひらいて」の秘密とは?

●玄侑宗久先生との対談
 芥川賞作家で福聚寺住職である玄侑宗久先生と対談させていただきました。日本で最も有名な僧侶である玄侑先生は、1956年(昭和31年)、福島県三春町生まれ。安積高校卒業後、慶應義塾大学文学部中国文学科卒業。さまざまな職業を経験した後、京都の天龍寺専門道場に入門。
 わたしはこれまで、京都大学名誉教授で宗教哲学者の鎌田東二先生と「神道と日本人」をテーマに対談し、『古事記と冠婚葬祭』として刊行されました。大阪大学名誉教授で中国哲学者の加地伸行先生とは「儒教と日本人」をテーマに対談し、『論語と冠婚葬祭』として刊行されました。
 そして今回、玄侑先生と「仏教と日本人」をテーマに対談させていただきました。神道・儒教・仏教は「日本人の心の三本柱」というのはわが持論ですが、ついに三本柱が揃いました。まことに光栄です。

●対談の名手を迎えて
 お三方との対談は、必ずや冠婚葬祭文化の振興に大きく寄与すると信じています。
 玄侑先生は、2001年に「中陰の花」で第125回芥川賞を受賞されました。芥川賞受賞後も多くの小説を書かれ、仏教や禅にまつわるエッセイも多いです。
 玄侑先生は、これまでに、瀬戸内寂聴、五木寛之、山田太一、養老孟司、中沢新一、佐藤優、日野原重明、木田元、山折哲雄、鎌田東二といった各界を代表する錚々たる方々と対談をしてこられました。そんな中に小生を加えていただき、まことに光栄でした。玄侑先生との対談からは、日本仏教および葬儀の未来も垣間見えた気がしました。
 わたしたちは現代日本人の「こころ」に関するさまざまな問題について語り合いましたが、特に自殺の話が印象的でした。

●自殺のメカニズム
 玄侑先生のお寺は福島県の三春にあるのですが、同じ福島県内の「霊山こどもの村」という施設にボタン1つでガラスケースの中に竜巻が起こる装置があるそうです。
 竜巻というのは、4つの風を別な角度から合流させて起こします。2つでも3つでも難しいですが、4種類の風が絶妙なバランスで合流すると発生するといいます。
 玄侑先生は、自殺というのはこの竜巻のようなものだと思ったそうです。そしてたまたま合流した4つの風すべてを知ることができない以上、自殺を簡単な「物語」で解釈するのはやめておこうと思い至ったと語ります。
 自殺によって体を殺そうとした「私」は普段の私ではありません。鬱や心身症のことも多いですし、竜巻がさまざまな要因で起こっているのかもしれません。自殺が起こるのは現実の変化に対応するための「物語」の再構成ができなかったのです。

●自殺に至る思い込み
 いま、15歳から39歳までの死因の第1位は自殺です(10歳から14歳の1位は小児がん。2位が自殺)。むろん戦争も感染症も大きすぎるほど大きな問題ですが、こんな切ない体験をしている家族が今の日本には無数にあり、また今日も大勢の若者が、竜巻に吹き飛ばされようとしているのです。これほど重い事実はありません。
 自殺は幾つもの原因が竜巻のように合流すると考えているのは事実ですが、これはある意味で死者の尊厳のための物語でもあります。玄侑先生は、「実際のところ、自殺する人の根底には、鬱的な思いがあります。つまり、現状の悪い要素は更に深まっていき、突発的な慶事が起こるはずもない。なぜかそんなふうに思い込んでいるわけです。
 これは限られた情報や能力による思い込みの覇権主義ではないでしょうか。いわば大脳皮質、もっと言えば左脳による思い込みが、我々の全身に対して今のロシアのように覇権的に振る舞うわけです。それがたぶん自殺なんです」と述べています。
 玄侑先生の最新刊は『むすんでひらいて』(集英社)です。同書の最後で、終戦直後に生まれた童謡「むすんでひらいて」を取り上げる玄侑先生は、この歌に日本復興のための深謀遠慮を感じるといいます。結んで開く、と始まりますが、これは本来、神と仏です。神は「結ぶ」ものであり、仏とは、解脱した存在ですから「ほどける」わけです。

●「むすんでひらいて」
 玄侑先生はこの歌を憶いだすと、「さまざまな人生上の問題って、じつは解決できるものじゃなくて、何度も結んだり開いたりしながら向き合っていくものだと思えてきます」と述べます。そうしているうちに、いつしか状況は変わってくるというのです。
 今の若い人たちは、何にでも「1つの正解」があると思っているように見えて仕方ないという玄侑先生は、人生は後戻りできない以上、結んだり開いたりしながら、悩みながら、自分の歩む道を「正解の1つ」にしていくしかないのではないかと訴えます。
 自殺を考える若者たちは、結んだ「思い込み」を開くことができず、どんどん自縄自縛になっていきます。しかも思い込んだ「正解」から乖離していく自分が許せない。というより、「取り返しがつかない」という感じに近いのではと、玄侑先生は推測します。
 人生はひたすら目的に沿って結びつづけるものではなく、結んだり開いたりを繰り返すものだと思ってほしいという玄侑先生は、「結んだり開いたりすることがコミュニケーションでもあるし、何かと向き合うことだと思うのです。だから人は、死に対しても、結んだり開いたりを繰り返しながら近づいていくしかない。それはつまり、死ぬ直前でも人は笑うことができる、ということでしょう」と述べられました。素晴らしい死生観であり、わたしは大きな感銘を受けました。

 思ひ込み 命を奪ふものと知れ
  むすんでひらく日本のこころ  庸軒