マンスリーメッセージ サンレーグループ社員へのメッセージ 『Ray!』掲載 2004.10

陽の下に新しきものなし、古代ローマの知恵に学ぶ

ヨーロッパに行ってきました。福岡県経営者協会による欧州視察団に参加したのです。西鉄、九州電力、西部ガスといった大手企業のトップの方々とともにイタリアのミラノ、フィレンツェ、ローマ、スイスのジュネーブといった都市をまわりました。

いろいろと収穫の多い視察でしたが、特にローマで作家の 塩野七生さんにお会いしたことが私にとって大きな出来事となりました。塩野女史といえば、故・司馬遼太郎と並んで、その愛読者に政治家や経営者を多く持つ高名な作家です。簡単に略歴を紹介すれば、一九三七年七月、東京生まれ。日比谷高校から学習院大学文学部哲学科に進み、卒業後、六三年から六八年にかけて、イタリアに遊びつつ学ばれたとのこと。六八年に執筆活動を開始し、「中央公論」誌に「ルネサンスの女たち」を発表。初の書き下ろし長編『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』により七〇年度毎日出版文化賞を受賞。この年からイタリアに在住。

八二年、ヴェネツィアの歴史を描いた『海の都の物語』によりサントリー学芸賞。八三年、菊池寛賞。そして九ニ年より、ローマ帝国興亡の一千年を描く全十五巻の「ローマ人の物語」にとりくみ、一年に一巻のペースで執筆中。九三年、『ローマ人の物語・ローマは一日にして成らず』により新潮学芸賞。九九年、司馬遼太郎賞。二〇〇二年には、イタリア政府より国家功労賞を授与されています。
かの『ローマ帝国衰亡史』を書いたエドワード・ギボンや『歴史の研究』を著したアーノルド・トインビーと同じく、あるいはそれ以上にローマ史に精通しているとさえ思われる塩野さんの著書は、日本でも圧倒的な人気を誇っています。「古代ローマの歴史は、とびきり面白い。だから書く。」とは塩野さんの言葉ですが、同じように思っている読者がたくさん存在し、「古代ローマ」に対する注目は高まる一方です。

しかし、歴史というものが面白いものだとしても、なぜ古代ローマなのでしょうか。日本人ならばまずは日本の歴史、少し譲ったとしても、現代日本人ならば関わりの浅くないヨーロッパの近代史ならわかりますが、どうして今から千五百年以上も前に滅びたローマの歴史なのか。

五世紀に西ローマ帝国が滅びて以来、およそ千年近く、滅び去ったローマのことをヨーロッパ人は誰も彼も忘れてしまったようになる。それがいわゆる中世という時代です。ところが、そこに俄然、古代ローマに興味を持つ人々が現れる。これが一三世紀から一五世紀に現れるルネサンス人たちでした。代表的なルネサンス人の一人であり、『君主論』の著者として名高いマキアヴェッリには次のような問題意識がありました。

すなわち、キリスト教は千年ものあいだ、ヨーロッパ人の精神を指導してきた。だが、それにもかかわらず、ヨーロッパ人の人間性は向上したとは思えない。これは結局、人間の存在がもともと、宗教によってさえ変えようがないほど「悪」に対する抵抗力がないからではないか。だとすれば、そうした人間世界を変えていこうとすれば、まずこうした人間性の現実を冷徹に直視する必要がある、と。

ルネサンス運動は別名「古代復興」とも呼ばれるわけですが、この新しい思想が非キリスト教的な性格を持つようになったのは、このような問題意識があったからに他なりません。そして、このルネサンスの人々が注目したのが古代ギリシアおよび古代ローマの歴史であったのです。なぜなら、古代ギリシアやローマの人々はキリスト教の助けを借りずに生きていた人々でした。さらに、古代ローマ人たちは優れた政体を作り上げたばかりか、その後、地中海世界はもとより現在の西ヨーロッパ全域にわたる広大な帝国を数世紀にもわたって維持し、そこに大いなる文明の華を咲かせたからです。

彼ら、ローマ人たちはキリスト教会のように、宗教によって人間性が改善されるとは考えませんでした。また、古代ギリシア人とも違って、哲学によって人間が向上するとも思わなかったのです。人間の行動原則の正し手を、ユダヤ人は宗教に求め、ローマ人は法律に求めたと言えます。しかし、それでいて彼らは決して人間に絶望していたわけではありませんでした。人間の中には善なるものもあれば、悪もある。善悪ともに同居しているのが人間ならば、その善を少しでも伸ばし、悪を少しでも減らす努力をしていくべきではないか。このようにリアリズムに徹して人間を考えたのがローマ人であり、そのローマ人のリアリズムを再び復興させようとしたのが、マキアヴェッリもその一人だったルネサンス時代の人々だったというわけです。

人類は、はたしてローマ帝国からこのかた、少しでも進歩したか。塩野さんは私たちに問いかけます。そのことは単に人間性やモラルといった個人レベルの問題だけではなく、国家のあり方という集団レベルで比べてみても、同じ答えが出てくるといいます。塩野さんがそう考えるのも、ローマ帝国以後、二度と「普遍帝国」を人類は作り出してこなかったからです。後世、ローマ帝国に対する批判、非難はさまざまになされていますが、歴史的事実として見たとき、民族の違い、文化の違い、宗教の違いを認めた上で、それらをすべて包み込む「普遍帝国」を打ち立てることができたのはローマ人のみでした。

この普遍帝国の夢を史上最初に抱いたのは、マケドニアのアレクサンダー大王でした。彼はヘレニズム(ギリシア文明)とペルシア文明の「幸福な結婚」を夢見て、十一年にわたる東方遠征を行ないますが、その壮大な構想を実現することなく、わずか三十代半ばで死んでしまいます。そのアレクサンダー大王の死から約三百年を経て現れたのが、ローマ人ユリウス・カエサルでした。カエサルが設計図を引き、初代皇帝アウグストゥスが幕を開け、その後の皇帝たちが作り上げたローマ帝国とは、まさしくアレクサンダーの見果てぬ夢を実現させた国家でした。

このローマ帝国の中には、ローマ人から見れば「蛮族」と呼ばざるをえないガリア人から、アテネやスパルタといった古代都市国家の末裔であったギリシア人、さらには一神教徒のユダヤ人に至るまで、多種多様の人種、民族が暮らしていたわけですが、ローマ人は彼らの多様性をできる限り尊重し、ローマ市民権さえ与えてきました。ローマ人はその理想を単なる「スローガン」として掲げるのではなく、現実の施策として行なったのです。

ローマ史をひもとけば、いわゆる属州出身の皇帝たちは少しも珍しくありません。現在のスペインやフランスといった、当時からしても文明化の度合い、つまりローマ化の度合いの高かった地域はもとより、アフリカ、シリア、ドナウ流域といった後進地域からも皇帝が登場したのです。その出身地や出自によって区別をしなかったのです。

初の世界大戦とされるポエニ戦争で天才ハンニバルを破るなど史上最強の帝国として知られるローマですが、塩野さんがローマ人に興味を抱くのは、彼らが人間性に対する幻想を抱かず、ということは、自分自身に対する幻想を抱くことなく行動していたからだそうです。ローマ人もまた人間である以上、失敗しないわけではない。いやローマ史を知れば知るほど、失敗と蹉跌の連続であったとさえ言えます。ただ、そこで違ったのは彼らが自らの失敗を認めたとき、改革を行なう勇気を失わなかったということです。ローマ人の強さは、失敗はしてもそれを必ず次の成功につなげようとするメンタリティにあり、このとき彼らは敗因が自分たち自身にあったことを直視します。そして単に反省するだけでなく、それを政治改革という形に結びつけるのです。

ローマが千年以上にわたって続いたのは、決して運が良かったからでもないし、彼らが特別だったからでもありません。ただ、彼らには自分の姿をありのままに直視し、それを改善していこうという勇気があった。だからこそ、ローマはあれほど長続きしたのです。となれば、このローマ人達の歴史を学ぶことは現代の日本人である私たちにとっても大きな意味を持ってきます。

塩野さんは言います。私たちはまず「自分がどこにいるのか」ということを確認するのがなによりも先決である。いま、自分が置かれている状況に流されるのではなく、もっと視野を広げることで自分がどこに立っているのかを確認する。すべては、そこから始まる。では、どうやったら視野を広げていけるか。

一つは、他の国や地域がどのようにして日本と同じ問題を解決しているかを知ることであるのは言うまでもありません。これに関しては、情報化社会の今日、参考例に窮することはないはずです。だが、こうしたリサーチはいわば水平方向のリサーチでしかありません。

そこで大事になってくるのが垂直方向のリサーチです。つまり、歴史を振り返って行くことによって、同種の苦境を乗り越えられた例を探す。水平方向に垂直方向を組み合わせることで、はじめて思考は三次元の立体生を獲得することになるのです。「陽の下に新しきものなし」という言葉がありますが、現在と同じ問題、そしてその解答はすでに過去にある。まさに歴史とは最高・最大・最強のデータベースであると私も常々思っています。

もちろん、何もローマ史だけが歴史ではありません。広大な帝国を作ったということであれば、中国の歴史もあるわけだし、近代ヨーロッパ史のほうが現代と結びつきは深い。しかし、塩野さんによれば、西欧的な価値観やイデオロギーが崩壊しつつある現在、宗教やイデオロギーとは無縁だったローマ人の生き方ほど参考になるものはないのです。さて、いわゆる講演の類を一切やらず、経団連会長クラスでさえ面会が困難といわれる塩野さんにお会いできたは、北九州のご出身で元ジェトロ・ミラノセンター長の安河内氏のおかげでした。塩野さんとはローマの中心地にあるホテル・クイリナーレで会食させていただきましたが、この当代随一の地中海世界およびローマ学の権威に質問したいことが私には山ほどありました。実際私は、大作映画「トロイ」や話題のベストセラー『ダ・ヴィンチ・コード』の感想から、現代のローマ帝国と呼ばれるアメリカの行方についてまで、ありとあらゆる質問を浴びせて、さぞ塩野さんをあきれさせたことだと思います。しかし今回、私は塩野さんにどうしても尋ねたいテーマが一つありました。

私が最も聞きたかったこと。それは、古代ローマ人たちの「老い」に対する考え方でした。私は『老福論』において「好老社会」という考え方を紹介し、古代エジプトは「若さ」よりも「老い」に価値を置く好老社会であり、逆に古代ギリシアは嫌老社会であったと述べました。しかし古代ローマについては、「嫌老」思想と「好老」思想がせめぎ合うようなところがあったのではないかと記しました。なぜなら、古代ローマを代表する哲学者キケロは『老年について』という「老い」を肯定する有名な本を書いているが、そこには「老い」に否定的な社会背景があったように思う。一方で、古代ローマの政治を実質上とりしきってきたのは長老たちからなる「元老院」であった。いったい、ローマ人たちは高齢者をどう見ていたのか。といった質問を塩野さんに投げかけました。
塩野さんはまず、元老院について詳しく説明してくれました。 その日本語訳から何となく頑固な老人たちの会のようなイメージがあるけれども、実は三十歳以上のローマ市民なら入ることのできる、いわゆる「国会」であったこと。しかし一度元老院に入ったら選挙はなく、その身分は終身ゆえ、結果として長老達が多かったこと。

また十七歳から四十五歳まで兵役が義務づけられていたローマ帝国においては老人とは文字通り「健康な精神は健康な肉体に宿る」という理念を体現した人と見られていました。常に戦争の絶えなかったローマにおいて、数えきれないほどの戦闘をくぐり抜けて生き残ってきた老人たちは、それだけで強い肉体と勇気と知恵をあわせ持った理想の人間として尊敬を受けていたというのです。そしてローマ人たちの多くは、四十五歳を過ぎてから「第二の人生」として、政治家になって国家の要職についたり、商売をはじめたり、芸術に打ち込んだり、それぞれが豊かなグランドライフを送ったとのことでした。

古代ローマは好老社会だった!その歴史的事実を塩野七生さんに確認した私の胸には、現代の超高齢国家である日本に、人が老いるほど豊かになる「老福都市」を建設し、「好老社会」を築くという夢が大きく膨れ上がっています。九月二十九日にサンレ-グランドホテルで行なった「合同長寿祝い」は夢実現のための一歩です。西洋におけるローマにしろ、日本における江戸にしろ、「老い」に価値を置き、高齢者を大切にする社会ほど長続きすると私は思っています。