葬礼を最重要視する儒教 冠婚葬祭の意味を考える
●加地伸行先生との対談
7月23日、ついに東京五輪が開催されました。義によって中止を訴えていたわたしとしては無念でなりませんが、もうこれ以上、東京五輪について語るのは中止します。
同月七日の「七夕」の日、わたしは東京ではなく大阪に向かいました。そして、心から尊敬する師と対談させていただきました。その方のお名前は、加地伸行先生といいます。
1936年、大阪生まれ。京都大学文学部卒業。専攻は中国哲学史。大阪大学名誉教授。わが国における儒教研究の第一人者です。
加地先生に初めてお会いしたのは、2012年の7月13日です。互助会保証が主催した講演会の場でした。
じつは、それ以前にも加地先生とはお手紙のやり取りや電話でお話させていただいたことはありましたが、直接お会いすることは初めてでした。それから、もう9年が経過したわけですが、初対面以来、定期的にお電話でお話ししていました。
●「孝」とは何か
加地先生は『論語』とともに儒教の重要教典である『孝経』を訳されたことで有名です。日本人の葬儀には儒教の影響が大きいですが、その根底には「孝」の思想があります。
「孝」とは何か。あらゆる人には祖先および子孫というものがありますが、祖先とは過去であり、子孫とは未来です。その過去と未来をつなぐ中間に現在があり、現在は現実の親子によって表わされます。すなわち、親は将来の祖先であり、子は将来の子孫の出発点です。ですから子の親に対する関係は、子孫の祖先に対する関係でもあるのです。
孔子の開いた儒教は、そこで次の3つのことを人間の「つとめ」として打ち出しました。1つ目は、祖先祭祀をすること。仏教でいえば、先祖供養をすることですね。2つ目は、家庭において子が親を愛し、かつ敬うこと。3つ目は、子孫一族が続くこと。そして、この3つの「つとめ」を合わせたものこそが「孝」なのです。
●「生命の連続」という発明
「孝」というと、ほとんどの人は、子の親に対する絶対的服従の道徳といった誤解をしています。それは間違いです。死んでも、なつかしいこの世に再び帰ってくる「招魂再生」の死生観と結びついて生まれた観念が「孝」というものの正体なのです。
これによって、古代中国の人々は死への恐怖をやわらげました。なぜなら、「孝」があれば、人は死なないからです。
それは、こういうことです。死の観念と結びついた「孝」は、次に死を逆転して「生命の連続」という観念を生み出しました。亡くなった先祖の供養をすること、つまり祖先祭祀とは、祖先の存在を確認することです。
また、祖先があるということは、祖先から自分に至るまで確実に生命が続いてきたということになります。さらには、自分という個体は死によってやむをえず消滅するけれども、もし子孫があれば、自分の生命は生き残っていくことになるのです。
だとすると、現在生きているわたしたちは、自らの生命の糸をたぐっていくと、はるかな過去にも、はるかな未来にも、祖先も子孫も含め、みなと一緒に共に生きていることになります。わたしたちは個体としての生物ではなく1つの生命として、過去も現在も未来も、一緒に生きるわけです。
●「遺体」の本当の意味
これが儒教のいう「孝」であり、それは「生命の連続」を自覚するということです。ここにおいて、「死」へのまなざしは「生」へのまなざしへと一気に逆転します。
この孔子にはじまる死生観は、明らかに生命科学におけるDNAに通じています。とくに、イギリスの生物学者リチャード・ドーキンスが唱えた「利己的遺伝子」という考え方によく似ています。
生物の肉体は1つの乗り物にすぎないのであって、生き残り続けるために、生物の遺伝子はその乗り物を次々に乗り換えていくといった考え方です。なぜなら、個体には死があるので、生殖によってコピーをつくり、次の肉体を残し、そこに乗り移るわけです。子は親のコピーなのです。
「遺体」とは「死体」という意味ではありません。人間の死んだ体ではなく、文字通り「遺(のこ)した体」というのが、「遺体」の本当の意味です。つまり遺体とは、自分がこの世に遺していった身体、すなわち「子」なのです。
あなたは、あなたの祖先の遺体であり、ご両親の遺体なのです。あなたが、いま生きているということは、祖先やご両親の生命も一緒に生きているのです。
●儒教と冠婚葬祭
儒教では、死から殯(もがり)の儀式を経て、遺体を地中に葬り、さらにその後の儀式が続きますが、そういう一連の儀式全体を「喪」といいます。遺体を埋める「葬」は「喪礼」の一段階にすぎません。
ですから儒教的に言えば、「葬式」ではなくて「喪式」です。また、婚礼は昏(くら)い間に行われたことから、日本語の「冠婚葬祭」は儒教では「冠昏喪祭」が正しいといいます。
仏式葬儀の中には、儒式葬儀の儀礼が取り込まれています。インドにおける本来の仏教に、果たして今のような葬儀の儀礼があったのかどうかさえ疑問です。加地先生は、「日本仏教はもちろんすぐれた宗教として存在する。私は仏教信者でありつつ、儒教的感覚の中で生きている」と述べています。この言葉は、多くの日本人にも当てはまるものでしょう。
そして、日本人の葬儀の本質とは仏教でなく儒教の儀式であり、そこでは直葬などありえないのです。加地先生との対談では多くの学びを得ました。今後のサンレーの経営をしていく上で、大いに生かさせていただきたいと思います。
葬儀とは命続けるかたちよと
人の道知る師に教へられ 庸軒