新元号は「令和」に決定!変えてはならないものとは?
●時代は若者が切りひらく
新元号が「令和」に決まりました。
5月1日に新天皇が即位され、新しい時代が始まりますが、4月1日には多くのフレッシュマンとフレッシュウーマンがサンレーグループに入社してくれました。
新入社員のみなさんを心より歓迎いたします。ぜひ、みなさんには、新しい時代のサンレーを創造していただきたい。新しい時代を創るのは、やはり若い力です。
時代は常に変化します。今から2500年前にブッダは「諸行無常」を説きました。また、時を同じくしてギリシャの哲学者ヘラクレイトスは「万物はすべて流転する。太陽ですらも、今日の太陽はもはや昨日の太陽ではない」と喝破(かっぱ)しています。
さらに時代を遡れば、中国古代の殷(いん)王朝を開いた湯王(とうおう)は孔子も賛美した名君ですが、彼が沐浴に使った器には「苟(まこと)に日に新たにして、日日に新た、又日に新たなり」という言葉が彫ってあったといいます。
「日に新た」ということを心がけ実践していくことが大切で、本当にそれを行なえば次々と自分が新しくなっていくというのです。
●「維新」とは何か
経済学者のシュムペーターや経営学者のドラッカーが強く提唱するイノベーションは、最初に「技術革新」と訳され、それが定着してしまったために、技術と結びつけられがちです。しかし、意味するところはもっと広く、新しい思考や問題意識に総合的に関わっています。そして経営学者のドラッカーは、社会的イノベーションの最大の成功例として日本の明治維新を挙げています。
明治維新の「維新」は、中国の古典で五経のひとつ『詩経』に出てくる「天命維(こ)れ新たなり」から取った言葉です。「維れ」というのは「大変に」という意味で、後の「新たなり」を強調した修飾語です。よって維新とは、世の中が思い切り変わって新しくなった、つまり大革新したということです。
まさにその通りだと思います。日本史上で一大転換期を画する明治維新は、政治、経済、文化、あるいは生活に未曾有の変革をもたらし、近世から近代へのエポックメーキングとなりました。
●革命と維新
維新は革命とは違います。
安岡正篤は東洋政治哲学に照らして、維新は順命であり、革命は非常の命であるとしました。また、維新の訳語はevolution、革命はrevolutionであり、維新のほうがより自然であり、より道徳的であるといいます。
安岡は言います。道徳は常に自己を新しくすることであり、そこで民を新たにするに在り、と。「新」の字にすることにも意味があるが、何によって自ら新たにし、世を新たにすることができるのかという根本を考えると、「親」という字が妥当であるといいます。
親しむことができて、はじめて新しくすることができます。ですから、親はもちろん、その代々の先祖から伝わっている大事な自分というものにもっと親しむ、もっと自分を大切にする。本当の自分になってはじめて、これではいけない、何とかしなければということになって、自己を新しくすることができるというのです。
●社会人への変化
そこで、新入社員のみなさんに一言。何より変化しなければならないのは、みなさん自身です。社会や会社を変化させる前に、まず、あなた方が変わらなければなりません。
みなさんは、これまで授業料というお金を親に払ってもらって勉強していました。しかし、これからは会社が給料というお金を払います。当然ながら責任感が求められます。
何かを新しく変化させる場合、それに親しむことができて、はじめて深く理解し、新しくすることができるといいます。
ですから、新入社員のみなさんは、まずはこの会社に親しんで下さい。上司や先輩に親しんで下さい。そして、企業風土や企業文化に親しんで下さい。
そのうえで、「これではいけない」「ここの部分は変えないといけない」と思ったら、大いに行動に移してください。社会人へのチェンジリングを果たした若いみなさんが、新しいサンレーを創造してくれることを願っています。
●変えてはいけないもの
平成が終わって新元号となったとき、さまざまな慣習や「しきたり」は一気に消え去ります。しかしながら、世の中、変えてもいいものと変えてはいけないものとがあります。
変えてはいけないものの代表が冠婚葬祭という「かたち」です。人間の「こころ」は、どこの国でも、いつの時代でも不安定です。だから、安定するための「かたち」すなわち儀式が必要なのです。「かたち」があるから、そこに「こころ」が収まるのです。人間の「こころ」が不安に揺れ動く時とはいつかを考えてみると、子供が生まれたとき、子どもが成長するとき、子どもが大人になるとき、結婚するとき、老いてゆくとき、そして死ぬとき、愛する人を亡くすときなどがあります。
その不安を安定させるために、初宮祝、七五三、成人式、長寿祝い、葬儀といった一連の人生儀礼があるのです。
「経営の神様」と呼ばれた松下幸之助翁は、「竹に節(ふし)がなければ、ズンベラボーでとりとめがなくて風雪に耐えるあの強さも生まれてこないであろう。竹にはやはり節がいるのである。同様に、流れる歳月にもやはり節がいる」との名言を残しています。冠婚葬祭という人生儀礼こそは、人間が生きていく上で流れる歳月の節にほかなりません。
冠婚葬祭という節が人間を強くし、さらには人生を豊かにするのです。
新しき時代を前に心せよ
変へてはならぬものを知るべし 庸軒