人生の四季を愛でながら生き 最後は堂々と旅立とう!
●「こころ」を安定させる「かたち」
日本最初の総合週刊誌「サンデー毎日」に2年半にわたって連載したコラム「一条真也の人生の四季」が単行本化されます。
同連載では、人間は「かたち」としての儀式を行うことによって不安定な「こころ」を安定させ、幸せになれると述べました。その意味で、儀式とは人間が幸福になるためのテクノロジーであると言えます。そう、「かたち」には「ちから」があるのです。
さらに、儀式の果たす主な役割について考えてみました。それは、まず「時間を生み出すこと」にあります。 日本における儀式あるいは儀礼は、「人生儀礼」(冠婚葬)と「年中行事」(祭)の2種類に大別できますが、これらの儀式は「時間を生み出す」役割を持っていました。「時間を生み出す」という儀式の役割は「時間を楽しむ」や「時間を愛でる」にも通じます。
●冠婚葬祭とは人生を肯定すること
日本には「春夏秋冬」の四季があります。
わたしは、冠婚葬祭は「人生の四季」だと考えています。七五三や成人式、長寿祝いといった儀式は人生の季節であり、人生の駅です。
セレモニーも、シーズンも、ステーションも、結局は切れ目のない流れに句読点を打つことにほかなりません。 わたしたちは、季語のある俳句という文化のように、儀式によって人生という時間を愛でているのかもしれません。それはそのまま、人生を肯定することにつながります。
未知の超高齢社会を迎えた日本人には「老いる覚悟」と「死ぬ覚悟」が求められます。それは、とりもなおさず「人生を修める覚悟」でもあるのです。冠婚葬祭や年中行事といった日本人の「こころ」を豊かにする「かたち」を取り上げながら、人生を豊かに生き、人生を美しく修めるヒントを書きました。特に、「死」は人間にとって最大の問題です。
●死生観は究極の教養である
これまで数え切れないほど多くの宗教家や哲学者が「死」について考え、芸術家たちは死後の世界を表現してきました。医学や生理学を中心とする科学者たちも「死」の正体をつきとめようと努力してきました。
それでも、今でも人間は死に続けています。死の正体もよくわかっていません。実際に死を体験することは一度しかできないわけですから、人間にとって死が永遠の謎であることは当然だと言えます。
なぜ、自分の愛する者が突如としてこの世界から消えるのか、そしてこの自分さえ消えなければならないのか。これほど不条理で受け入れがたい話はありません。その不条理に対して、わたしたちは死生観というものを持つ必要があります。
高齢者の中には「死ぬのが怖い」という人がいますが、死への不安を抱えて生きることこそ一番の不幸でしょう。まさに死生観は究極の教養であると考えます。
●自分の葬儀をイメージする
死の不安を解消するには、どうすべきか。それは、自分自身の葬儀について具体的に思い描くのが一番ではないでしょうか。
親戚や友人の誰が参列してくれるのか。そのとき参列者は自分のことをどう語るのか。理想の葬儀を思い描けば、いま生きているときにすべきことが分かります。
参列してほしい人とは日頃から連絡を取り合い、付き合いのある人には感謝する習慣を付けたいもの。
生まれれば死ぬのが人生です。
死は人生の総決算。自身の葬儀の想像とは、死を直視して覚悟すること。覚悟してしまえば、生きている実感が湧いてきて、心も豊かになります。
葬儀は故人の「人となり」を確認すると同時に、そのことに気づく場になりえます。葬儀は旅立つ側から考えれば、最高の自己実現の場であり、最大の自己表現の場なのです。
●誰にも「人生の四季」がある
日々、多くの「愛する人を亡くした人」にお会いします。100歳を超える高齢で大往生された方から、生まれたばかりの赤ちゃんまで、亡くなられた人の年齢はさまざまです。
一般に、高齢であればあるほど悲しみはより浅く、若ければ若いほど悲しみはより深いとされます。しかしながら、わたしは、すべての人間は自分だけの特別な使命や目的をもってこの世に生まれてきていると思います。この世での時間はとても大切なものですが、その長さはさほど重要ではないのです。
明治維新を呼び起こした一人とされる吉田松陰は、29歳の若さで刑死しましたが、その遺書である『留魂録』にこう書き残しました。
「今日、死を決心して、安心できるのは四季の循環において得るところがあるからである。春に種をまき、夏は苗を植え、秋に刈り、冬にはそれを蔵にしまって、収穫を祝う。このように一年には四季がある」
●堂々と人生を卒業する
松陰は人間の寿命についても次のように述べました。
「人の寿命に定まりはないが、10歳で死ぬ者には10歳の中に四季がある。20歳には20歳の四季がある。30歳には30歳の四季がある。50歳、100歳には50歳、100歳の四季がある。私は30歳で死ぬことになるが、四季は既に備わり、実をつけた」
松陰の死後、その弟子たちは結束して、彼の大いなる志を果たしました。松陰の四季が生み出した実は結ばれ、その種は絶えなかったのです。
松陰だけでなく、「人生の四季」は誰にでもあります。わたしたちは、そのことを忘れてはなりません。せめて、四季折々の出来事を前向きに楽しみながら、後の世代に想いを託し、最後は堂々と人生を卒業してゆきたいものですね。
人生の四季折々を愛でながら
威風堂々旅立つが良し 庸軒