マンスリーメッセージ サンレーグループ社員へのメッセージ 『Ray!』掲載 2005.06

白い雲をめざして歩き、紫の雲に迎えられる旅

これまで太陽と月についてお話してきました。太陽も月も、とてつもなく奥深い存在であり、かつサンレーグループにとって意味が大きいことがおわかりいただけたことと思います。さて、その太陽と月にとって最大の友というかパートナーは同じ存在です。何だかわかりますか?

答えは、雲です。絵画や詩といった芸術作品を見ればよくわかりますが、太陽も月も、かたわらに雲があってこそ荘厳となり、美しくなります。つまり、雲には太陽や月の存在感を際立たせるという、大変な役割があるのです。『雲は天才である』とは石川啄木の小説の題名ですが、雲はさまざまな形に姿を自由に変え、悠々と大空を流れてゆきます。晴れた休日に散歩に出て、公園のベンチに座ったり、芝生の上に寝転がったりしたとき、ただ空を流れゆく雲を眺めているだけで、たまらなく自由で豊かな気分になれます。それは、天上へのまなざしにも関わっているからだと私は思います。

雲は人間の希望のシンボルでもあります。日露戦争百周年ということで、七十年代に大ベストセラーとなった司馬遼太郎の大作『坂の上の雲』がまた良く読まれているようです。NHKが大河ドラマスペシャルの企画を進めているとも聞きました。

NHKといえば人気番組「プロジェクトX」に登場するような人々、つまり高度成長時代の主役となった企業戦士たちの最大の愛読書がこの『坂の上の雲』でした。経営者や政治家で座右の書としている人も非常に多い。そんな本です。

富国強兵策のもと、息せき切って先進国に追いつこうと奮闘努力した時代、明治。この小説は遅ればせながら近代国家の仲間入りを果たした日本にあって、武と文とに大きな足跡を残した正岡子規、秋山好古、真之兄弟の三人を中心に、昂揚の時代に生きた群像を描いた雄大な交響楽であり、叙事詩であり、すぐれた人物論となっています。

近代国家としてまったくのひよこでしかない明治国家がどんどん坂をのぼっていく、いわば日本近代の青春小説ですが、登場する三人の主人公も若い。正岡子規は、俳句の革新運動をやった人ですね。秋山好古は、日本の陸軍の騎馬軍団をつくった人です。日露戦争で、世界最強のコサック騎馬隊を向こうに回して少数ながらも戦い、勝ちを制することはできなかったが、負けなかった日本の陸軍機動隊の最高指揮官です。その弟の秋山真之は、日本連合艦隊の参謀で、日露戦争の海戦において、海軍の戦略・戦術を全部まかされた人です。彼の作戦で、バルティック艦隊と太平洋艦隊というロシアの二つの大艦隊を全滅させ、日露戦争を勝利に導いた軍事的天才です。

とにかく百年前の日露戦争は奇跡の戦争でした。当時のロシア軍は世界最強の軍隊であり、日本海海戦はそれまでの人類最大の海戦、さらに奉天の戦いは世界最大の陸戦でした。司馬遼太郎は次のような感動的な書き出しで『坂の上の雲』を書きはじめています。

「小さな。といえば、明治初年の日本ほど小さな国はなかったであろう。産業といえば農業しかなく、人材といえば三百年の読書階級であった旧士族しかいなかった。この小さな、世界の片田舎のような国が、はじめてヨーロッパ文明と血みどろの対決をしたのが、日露戦争である」

その対決に、辛うじて日本は勝ったのです。その勝利は、実にコロンブス以来初めて有色人種が白人の文明に勝ったか画期的な大事件でした。その勝った収穫を後世の日本人は食いちらかしたことになりますが、とにかくこの当時の日本人たちは精一杯の智恵と勇気と、そして幸運をすかさずつかんで操作する外交能力のかぎりをつくしてそこまで漕ぎつけたのです。世界史のうえで、ときに民族というものが後世の想像を絶する奇跡のようなものを演ずることがありますが、日清戦争から日露戦争にかけての十年間の日本ほどの奇跡を演じた民族は、まず類がない、と司馬も述べています。

その奇跡が起こったのは、何よりも明治人たちに徹底的な楽天主義があったからです。明るい未来を信じて、前に進むしか道がなかったのが明治という時代でした。司馬は、『坂の上の雲』のあとがきにこう書いています。

「楽天家たちは、そのような時代人としての体質で、前をのみ見つめながらあるく。のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲がかがやいているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう」

日露戦争で奇跡の勝利を得た日本は、その成功体験が仇となりました。アジアの国として初めてヨーロッパの強国の一角を崩し、せっかく坂をのぼって見晴らしのいい場所に出たのに、その後、坂道を転げ落ちるように太平洋戦争における敗戦へと向かっていきます。日本史上初の敗戦はまさに明治維新にも匹敵する社会の大変革であり、その後、再び坂の上の白い雲をめざした日本人は奇跡の経済復興、そして高度成長を果たします。まさにこの二度目の坂を登る時期に書かれた「坂の上の雲」は多くの楽天家たちの心をつかみ、彼らはさまざまなプロジェクトXに果敢に挑戦したのです。

残念ながら、現在の日本は「第二の敗戦」などといわれ、政治も経済もアメリカのなすがままで、まったく活気がありません。坂の底もいいところで、見晴らしは最悪です。

人々の心にもどんよりとした悲観主義があるようです。いまこそ、もう一度、天を見上げて白い雲をさがさなければならない。そして、勇気を出して坂を登って行かねばならないのではないでしょうか。

日本という国家だけではありません。私たち個人もまた、自分なりの白い雲を見つけなければなりません。その白い雲を「希望」と呼ぶか、「信念」と呼ぶか、または「人生の目的」と呼ぶか、それは各人の自由です。しかし、そういった坂の上の雲を持たずに送る人生など、なんと空しいものかと私は思います。人生は白い雲をめざして歩く旅のようなものです。芭蕉は「道祖神のまねき」にあって、取るもの手につかず、奥の細道の旅へと出発しますが、私たちはみな、自分だけの白い雲をめざして人生という旅を続けてゆきたいものです。

しかし、人間というのは坂をのぼるだけではありません。その峠をすぎて秋風の中をゆっくりと坂道を谷底に向かってくだってゆくときもあります。木登りでも登山でも、「のぼり」より「くだり」が大事と言われますが、人生もまったく同様で、坂をくだる老年期というものが非常に大切なのです。そして、坂をくだってくだってくだりきったとき、私たちは再び雲に出会います。ただし、その雲の色は白ではなく、この上なく高貴な紫色です。

紫雲という言葉を知らない人はサンレーグループにはいないでしょう。紫雲閣の紫雲だからです。でも、その意味を知らない人は多いのではないでしょうか?辞書を引くと、紫雲とは「紫色の雲。めでたい雲。念仏行者の臨終のとき、仏がこの雲に乗って来迎するという」と出ています。つまり、私たちが死ぬときに極楽浄土から迎えにきてくれる仏様の乗り物が紫雲なのです。

もともと、来迎という考え方は浄土教に由来します。五色の雲に乗った阿弥陀仏が、人の臨終の際に、二十五菩薩を引き連れて迎えにくるという華麗な来迎幻想。それは、死後もなお現世の享楽を維持したいという貴族や、現世では得られなかった至福の時を得たいと願う民衆の魂を魅了しました。彼らは、死に臨んで念仏を唱え、来迎図に描かれた阿弥陀の手と自分の手を糸で結びました。来迎を待つ者を、親鸞は「いまだ信心を得ぬもの」と否定しました。宗教的にはそのとおりかもしれませんが、人は夢を見たいものです。死後への幸福なロマンを抱くことはまったく間違っていないと私は思います。

浄土に往生したいというあくなき願いが生み出した来迎図は、源信の『往生要集」から始まったとされています。

およそ源信ほど日本人の死の不安を取り除いた仏教者はいなかったでしょう。彼は九四二年に現在の奈良県に生まれましたが、九歳にして叡山にのぼり、天台宗の中興の祖といわれた良源の弟子となります。天性聡明、特に論理の才に恵まれました。九八四年十一月に『往生要集』三巻の執筆を始め、翌年四月、わずか半年で完成しました。源信四十四歳のときです。たちまちにこの書の写本がつくられ、人々は争ってそれを読みました。藤原道長も、紫式部も、鴨長明も、西行も、この書物を愛読し、多くの影響を受けました。またこの書は宋にも送られ、宋でも高い評価を得たといいます。

源信は、ふつうは共存することが困難である二つの才に恵まれていました。学者としての才と詩人としての才です。『往生要集』は、引用典籍百六十数部、引用文は九百か所に及びますが、そのような多くの文献を引用しながら論旨は整然として、一点の論理の乱れもありません。しかも引用文および彼自身の文章も美しいものが多く、単に理性のみでなく、情感にも訴えるのです。源信は詩文に巧みであったばかりか、絵や彫刻もよくしました。

『往生要集』は、厭離穢土、欣求浄土、極楽の証拠、正修念仏、助念の方法、別時念仏、念仏の利益、念仏の証拠、往生の諸業、問答料簡の十門からなります。この論の中心は第四の正修念仏ですが、影響からいえば、第一の厭離穢土、第二の欣求浄土がそれに劣らず重要です。

『往生要集』をもとに多くの地獄絵や餓鬼絵が描かれました。最近まで、日本の多くの寺には地獄絵があり、たとえば幼い白隠や太宰治など、その絵を見て異常な恐怖に襲われ、それが彼らの後の人生に大きな影響を与えました。源信はこのような六道すなわち地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天の六つの苦の世界を離れて、清浄で美しい極楽を願い求めよといい、その極楽の比類なき浄さ、美しさを多くの経典を引用して語ります。彼自身もすばらしい極楽の絵を描きましたが、多くの画家が彼にならって多種多様の極楽の絵や阿弥陀来迎の絵を描きました。これらが死の不安におびえる民衆の心をどれだけ慰めたか想像もつきません。ちなみに、現在も残る宇治の平等院は極楽の見事な造形化です。

この極楽へ往生する方法が念仏に他なりません。念仏には五つの紋があります。つまり礼拝、讃歎、作願、観察、廻向ですが、この中心が観察です。観察には、別相観と惣相観と雑略観の三つがあります。別相観とは阿弥陀仏の個々の相好を順次に観想すること、惣相観とは阿弥陀仏を総体的に観想すること、雑略観とは阿弥陀仏の一定の部分にかぎって観想することです。

中国の浄土教において、もっとも重視された浄土経典は『観無量寿経』です。この経は、阿弥陀仏と極楽浄土が目を開けても閉じても常にありありと見える観想の行をすれば、臨終にあたって阿弥陀仏が迎えにきて、必ず極楽往生することができると教えます。源信が勧めているのはこのような観想の念仏であることは間違いありません。しかし、このような観想の行ができない人はどうするか。源信は次のように言います。

「もし相好を観念するに堪えざるものあらば、或は帰命の想により、或は引摂の想により、或は往生の想により一心に称念すべし」

浄土宗の祖・法然はこの一文を、源信が観想の念仏のできない人に口称の念仏を勧めていると解釈します。しかしここでいう「称念すべし」とは、もっぱら阿弥陀仏を思えという意味であり、必ずしも口称の念仏の進めとは言えません。源信の念仏はあくまで美的想像力を行使する観想の念仏とみるべきです。法然によって浄土教は易行となり、より倫理的なものになりましたが、残念ながらすぐれた造形芸術を生むことはできませんでした。それに対して、観想の念仏を説く平安浄土教は多くのすばらしい造形芸術を生み、今でも日本人の大いなる誇りとなっています。

多くの人々の死の不安をやわらげた源信を私は心から偉大だと思います。このたび幻冬舎より文庫化されることになりました、拙著「ロマンティック・デス」について現代の「往生要集」であると言ってくださる人もいますが、不遜ながら私も源信のように人々の死の不安を払拭し続ける人生を歩みたい。現代の観想の行としての死のイメージ・トレーニングを提案し、ハートピアという極楽を表現してみたい。そして、人生という旅が終わるとき、紫の雲に乗った仏様が迎えにくるお手伝いを多くの紫雲閣において行ないたいと思うのです。いつか人が亡くなっても、「不幸があった」と日本人が言わなくなる日を信じて、私にとっての坂の上の雲をめざしたいと思います。

坂のぼる上に仰ぐは  白い雲
旅の終わりは紫の雲(庸軒)