マンスリーメッセージ サンレーグループ社員へのメッセージ 『Ray!』掲載 2006.09

笑う門には福来たる、すべての人に笑顔を!

四回にわたって、「思いやり」「感謝」「感動」「癒し」と、精神集約型産業を成す重要なテーマを取り上げてきましたが、今月お話する「笑顔」や「笑い」も忘れてはならないとても大事なテーマです。

当社の経営理念である「S2M」には、「スマイル・トゥー・マンカインド~すべての人に笑顔を」があります。当社のようなホスピタリティ・サービス業には笑顔・挨拶・お辞儀といったものが非常に大切ですが、特に笑顔が必要です。営業においても、明るい笑顔でお客様に接するのと暗い無表情で接するのとでは雲泥の差がり、それは確実に成果の差となって出てきます。

マンカインドとは、すなわち人類であり、すべての人という意味です。すべての人は私たちのお客様になりえます。ぜひ、お客様のみならず、取引業者の方や社内の人たち、部下や後輩にも笑顔で接していただきたいと思います。かつて、クレイジーキャッツの「日本全国ゴマスリ音頭」で植木等が、「手間もかからず、元手もいらず」と歌っていました。

笑顔もまた、手間もかからず、元手もいりません。ゴマスリなどしなくてよいですから、そのかわりに笑顔を心がけて下さい。これほど安上がりで効果が高いサービス業のスキルは他に存在せず、まさに最高のコスト・パフォーマンスです。

笑顔は、国籍も民族も超えた、まさに世界共通語です。

また、性別や年齢や職業など、人間を区別するすべてのものを超越します。「すべての人に笑顔を」は、当社の大ミッションである「人間尊重」そのものなのです。

笑顔のない組織に潤いはなく、殺伐とした非人間的な集団にすぎません。そんな会社は、ハートレス・カンパニーであり、ハートフル・カンパニーには笑顔が溢れています。笑顔のもとに人は集まることは普遍の真理です。

笑顔など見せる気にならないときは、無理にでも笑ってみせることです。心理学によれば、動作は感情に従って起こるように見えるが、実際は、動作と感情は並行するものであるといいます。ですから、快活さを失った場合には、いかにも快活そうにふるまうことが、それを取り戻す最高の方法なのです。不愉快なときにこそ、愉快そうに笑ってみて下さい。

「笑う門には福来たる」という言葉があるように、「笑い」は「幸福」に通じます。笑いとは一種の気の転換技術であり、笑うことによって陰気を陽気に、弱気を強気に、そして絶望を希望に変えるのです。

他人の笑いからもプラスの気を与えられます。特に元気な子どもの笑い声など、人間の精神の糧になるだけでなく、肉体にも滋養になるそうです。笑いとは、この世に心の理想郷をつくる仕掛けであると思います。地上を喜びの笑いに満たすことが、政治や経済や宗教の究極の理想ではないでしょうか。

異色の哲学者である中村天風は、「笑いは養生である」と述べています。人間は神経の集積であるので、神経系統をみだりに消極的に興奮させることが、直接間接に生命に危険を与えることとなるのは当然である。人間の個体の生命擁護のために、全神経系統の興奮を鎮める一手段として「笑い」を全体に仕組んであるというのです。

天風は言います。事ある時も事なき時も終始笑顔で応接しよう。いや、事ある時はいっそうの笑顔を崩さぬように練習するべきである。特に、体の弱い人はひとしお笑いに努力することを養生の第一とするべきである。

また天風は、「人間だけが笑える」とも言いました。笑顔を失うと、命の資本ともいうべき健康を破壊するだけでなく、運命も同様にとにかく阻まれがちとなってしまう。西洋のことわざにも「和やかな笑顔の漂うところに、運命の女神はその慈愛の手をさしのべる」というのがある。いったい何のために、人間だけが笑えるようにできているかということを厳粛に考える必要があります。

笑いは、冠婚葬祭をはじめとした日本の民俗儀礼にも深く関わっています。胞衣(えな)を埋めるときに三度笑うエナワライ、猟師の成年式にあたるサケフリマイ、さらに婚礼での出家式の際の笑い、小正月の火祭であるサイゾウワライ、田植後のサナブリの他、各地の笑い祭、悪態祭、山の神祭などに儀礼的な笑いを見ることができます。これらの笑いには、古い死すべきものを笑いとばして、新しいものを出現させるという機能があるのです。

笑いはまた、逆転やさかしまのイメージと結びつきます。公的なもの、権威あるものを一瞬のうちに破壊し、ひっくり返すところから、年や季節の変わり目といった時間のはざまや人生の節目には笑い祭などの笑いの儀礼が行なわれるのです。

こうした笑いは、古く『古事記』『日本書紀』の天岩戸神話にも見られます。この神話では、アメノウズメノミコトの卑猥な踊りに八百万の神々がどっと笑うと、岩戸に隠れていた太陽神の天照大神が再び姿を現したと語られています。つまり、笑いをきっかけとして、冬から春へ、夜から昼へ、さらに太陽の更新といった転換がなされているのです。

宗教哲学者の鎌田東二氏は、「笑い」は「驚き」に通じると述べています。プラトンやアリストテレスは「哲学は驚きにはじまる」といい、空海は「驚覚」という言葉を使っています。また安岡正篤によれば、哲学も文学も芸術も宗教も「驚き」から生まれたといいます。

「驚き」とは、常識や執着からの自由です。そして、また「笑い」も同様です。「驚き」はつねに「笑い」に通ずる。なぜならば、それは息の途切れをもたらすからです。「驚き」と「笑い」に共通するもの、それは呼吸の停止なのです。ともに一種の仮死状態です。呼吸停止とは、すなわち考えが中断するということです。「驚き」の瞬間にも、「笑い」の瞬間にも、それ以前の考えは中断され、そこに意識の空白状態が生まれる。

鎌田氏によれば、象徴的に「驚き」は死の儀礼に通じ、「笑い」は再生儀礼、あるいは創造儀礼に通じます。天照大神の岩戸隠れ=驚き=死と、岩戸の前での鎮魂祭祀や歌舞の奉納による天照大神の再出現=笑い=再生の物語は、「驚き」と「笑い」の底に「死と再生」が隠されていることを暗示しています。ちなみに『古事記』には、この神々の「笑い」は、「歓喜咲楽(よろこびわらいあそぶ)」と表記されています。

ということは、「驚き」も「笑い」もともに浄化力を持っていますが、「笑い」はそれに加えて創造力や再生力をも持っているということです。であれば、「笑い」のない生命には、活気も飛躍も創造もありません。「笑い」のない哲学も宗教もどこかいびつで、かたよっているということです。実際、ソクラテスはよく笑いましたし、老子もよく笑いました。如来もそうだし、ブッダもしかりです。  ブッダでは、最後の笑いのエピソードが有名です。『大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)』は、ブッダの臨終における不思議な安らかさを伝えています。なすべきことをなし、生死無常のことわりにしたがって、静かに世を去ってゆくこの偉大なる人の面影を伝えてあますところがありません。

このようなブッダの心を『大般涅槃経』は一つの不思議な話で語ります。彼がヴェサリ城を出たとき、彼はヴェサリ城を見て笑ったといいます。このブッダの笑いを怪しんで、アーナンダは、「なぜ、あなたは笑ったのか」と問いました。それに対して、ブッダは、「これは私のこの城の見納めであるから笑った」と言いました。この話をブッダが語ったとき、天は大いに悲しんで、多くの雨を降らせたといいます。そしてその笑いの意味と雨の意味を知って、多くの弟子たちも、同じようにさめざめと涙をこぼしたのです。

このブッダが、最後の見納めだと思って城を見た笑いの意味は何でしょうか。哲学者の梅原猛氏は、ここにブッダの素晴らしい魅力があるような気がして仕方がないと述べたうえで、著書『仏教の思想』に次のように書いています。

「彼は一方において心に深い傷をもち、もし彼の生命が救済のためでなかったら、一日も早くこの世を去ってしまいたいと思うような人間であった。どこかで彼の心の中には、深い生に対する絶望が巣食っている。しかし、その同じ彼が、見納めの城に向かって、虚心の笑いをするのである。これはむしろ存在の肯定の笑みである。生というものに対する、なんともいいようのない強い愛情の表現である」

ブッダの死を、一つの諦めの目で見ることはできません。生きるものはたしかに死ぬものかもしれません。存在するものはたしかに無常かもしれません。しかし、それが何でしょうか。滅びゆくものがそのままに、もっとも愛すべきものである、もっとも喜ぶべきものであるのではないか、それがブッダの最後の笑いかもしれないと梅原氏は述べています。

笑い。特に大いなる笑い。それは仏教において、「怒り」とともに禁じられた情念でした。静かなる慈悲の笑い、それは、仏教本来の笑いです。しかし密教は別の笑い、すなわち大笑いを主張します。「生命よ、生命よ、楽しきかな生命」という笑いです。大いなる楽しみのあるところ、そこにまた大いなる笑いがあるのでしょう。十一面観音の背後に大笑いの面があります。仏教において大笑面をつくるのは密教のみです。

「S2M」に「スマイル・トゥー・マンカインド」を入れたとき、営業や冠婚部門に笑顔が必要なのは当然だが、紫雲閣には関係ないのではと思った方がいたようです。しかし、それは誤った認識です。仏像は、みな穏やかに微笑んでいます。これは優しい穏やかな微笑みが、人間の苦悩や悲しみを癒す力を持っていることを表しています。葬儀だからといって、暗いしかめっ面をする必要などまったくないのです。

最近の紫雲閣の「お客様アンケート」を読むと、「担当の方の笑顔に癒されました」とか、「担当者のスマイルに救われた」などの感想が非常に増えてきています。これは大変嬉しいことだと思います。もともと、人が死んでも「不幸があった」などと言わない社会にすることが当社の志です。もちろん、厳粛な葬儀の場で大声で笑ったり、ニタニタすることは非常識ですが、穏やかな微笑は絶対に必要であると私は確信しています。

会社内においても、笑いは必要です。特に、ユーモアは組織の雰囲気を和ませます。「ユーモア」の語源であるラテン語の「フモール」という言葉は、元来、液体とか、流動体を意味するものであり、みずみずしさ、快活さ、精神的喜びなどを連想させます。

まことに意外ですが、「謹厳実直」のイメージそのものである吉田松陰も、よくギャグを言ったそうです。野山獄に投じられた松陰に、兄から熊の敷皮が差し入れられたことがある。それに対し松陰は礼状で、「熊が寅のものになった」と述べています。

松陰の通称は「寅次郎」だったからです。あるいは同じく兄が、書籍と一緒に果物を差し入れてくれたことがありました。兄の添え状には、その数は九つとなっていましたが、実際は十ありました。そこで松陰は返事に「その実十あり、道にて子を生みにしか」と記しました。途中で果物が子どもを生んだらしいというのです。

またあるいは、松下村塾の増築工事が行われた時のこと。梯子に上り、壁土を塗っていた品川弥二郎が、あやまって土を落とし、それが松陰の顔面を直撃しました。ひたすら恐縮する弥二郎に対し松陰は、「弥二よ、師の顔にあまり泥を塗るものでない」と言って、周囲のみんなを笑わせたといいます。

ときには議論が白熱する松下村塾にあって、ギャグは欠かせなかったのでしょう。議論を闘わせ対立すると、どうしても険悪な雰囲気が生まれることもある。そんなとき、さりげなく、邪魔にならない程度のギャグが出ると、雰囲気は和みます。松陰にとってギャグとは、そんなガス抜きの意味があったに違いありません。

私もよくダジャレを言うのですが、つねに笑いの絶えない明るい職場にしたいものです。そして、お客様に対する笑顔を忘れないでいただきたい。

結婚式のお客様にはともに喜びを分かち合う最高の笑顔を、葬儀のお客様には心を癒す穏やかな微笑を…サンレーは日本一の笑顔を売る会社でありたいと思います。

喜びを分かつ笑顔と
悲しみを癒す微笑ともに求めて   庸軒