新年行事にみるサンレーの「儀式力」プロ集団として、さらなる磨きを!
今年も一月五日の北九州にはじまり、8日の北陸、14日の沖縄、16日の大分、そして20日の宮崎と、全国サンレーグループの新年進発式および祝賀会を無事に終えることができました。
毎年、各地の新年進発式では本当に気合が入ります。入場時の拍手にはじまって、ふれ太鼓、社歌斉唱、経営理念およびS2M宣言の唱和と式典の進行にともない社長である私のテンションも次第に上がっていき、それは会長訓示のあいだにさらに上昇し、社長訓話の前にみなさんから発せられる「社長、あけましておめでとうございます!」の見事に統一された挨拶によって最高潮に達します。そして、私は今年も無事に新年のメッセージをみなさんに伝えることができる喜びをかみしめながら社長訓話を行うのです。
その後も各種表彰に続き、各部署からの決意表明、本部長あるいは事業部長決意表明、最後はみんなで手をつないで人の輪をつくり、「がんばろう!」と三回唱和する「和の声」をもって新年進発式は終了します。
新年進発式の後は新年祝賀会です。これは儀式である進発式に対する直会(なおらい)の部分であり、飲食の場であるとともに、園芸やカラオケといった歌舞音曲の場である。抽選会という一種のギャンブルの場でもある。つまり、徹底して非日常的な時間であると言えるでしょう。
私たちは、この進発式と祝賀会という二つの非日常的行事によって、ある意味で生まれ変わり、今年一年分の日常を生きる活力を得るのです。
会社にとっての式典とは何でしょうか?会社が主催する儀式や行事は入社式や退社式、創立記念式典や社長就任披露宴など、多種多様なものがあります。それらは一括して会社儀襟と呼ばれています。経済活動の主体である会社がなぜ儀礼を行うのでしょうか。
経営人類学などでは、日本には「会社宗教」があるとしています。まず、日本の会社には神仏をまつる空間が確保されている。すべての会社というわけではありませんが、かなりの会社に宗教的な装置や施設が設けられています。社員はふだん気にも留めないでしょうが、彼らは神仏の加護のもとにあるのです。
事務所の一角には神棚があるし、ビルの屋上や工場の片隅には鳥居とともに祠が建っています。会社の神は、稲荷をはじめ、地元の有力な神、業種に関連の深い神、創業者の信奉した神など、枚挙に暇がありません。会社の神棚にはそうした神社の御札が奉安されているのです。また、日本の会社は墓も所有しています。もっとも顕著な場所は高野山や比叡山の山中にあり、そこでは在職中の物故従業員や創業者以下役員の霊の供養がなされています。宗教的な空間があれば、当然、宗教的な時間が会社に流れます。毎朝、神棚に向かって手を合わせる経営者もいれば、当社のように毎月、会社の神社で月次祭を行う企業もあります。会社の神社では少なくとも年に一回は祭典が執り行われますし、それに会長・社長以下、役員・幹部が参列するのが慣例となっています。また、恒例の物故者慰霊法要の時には全国一斉に黙祷をささげる大会社もあります。とはいっても、これらの儀礼行動は社外の人の目に付くわけではなく、ひっそりとした社内行事以外のものではありません。
ところが、全社をあげて対外的なセレモニーとして挙行される会社儀礼が存在し、それを社葬といいます。社葬とは一般的に、亡くなった会社のトップ経営者に対し、会社の名において、資金面でも人材面でも、会社が全面的に主催するところの葬儀であり、社内よりも社外に目が向けられている会社儀礼です。これは故人の交友関係にのみならず、会社の取引先、株主、業界関係者、政治家など、会社のつきあい関係を最大限に巻き込む儀礼であり、故人と一面識がなくても義理で参加する者や一種のハレがましい気分の者も含まれます。新聞に死亡告知と社葬の社告がのり、関係者には会葬案内状が送られます。これは、社外からできるだけ多くの人に来てもらう一大イベントなのです。社葬の当日は、幹部社員が動員され、大企業でも重要な仕事はストップします。他方、総務や秘書といった関係部局では、社葬の準備に相当の時間が費やされ、神経の休まる暇もありません。実際、中枢の担当者は何キロもやせることが珍しくないそうです。
こうまで大変な思いをしてまで、あえて会社が社葬をいとなむ最大の理由は、会社の名において多大な貢献をしたトップ経営者を顕彰することです。葬儀委員長による「追悼の辞」では、会社という経営体のリーダーとしての業績や貢献についての言及がなされ、それに感謝するための葬儀であるという趣旨が述べられます。来賓の弔辞においても会社や業界の発展のために故人がいかに尽力したかが強調されます。そこでは会社人としての故人の功績が最大級の賛辞の表現をとって顕彰されます。表彰や勲章はこの時に一段と輝きを増し、故人の生涯がプラスの面で総括されます。当然、生前のマイナス面への言及は礼儀としてなされません。この弔辞こそ、会社の会社による会社のための葬儀のクライマックスがあるのです。なぜなら、弔辞を読む人物は社会的地位の高い名士で、故人の功績を顕彰するのに最もふさわしい人物として選りすぐられるからです。
顕彰とセットで重視されるのは告別です。葬儀とは本来は旅立ちの儀式ですが、社葬においては故人の旅立ちはあまり問題ではなく、むしろ会社としての別れの演出が大切です。弔辞のおいても故人の喪失をいたみ、その冥福を祈る言葉が述べられますが、焼香や玉串奉奠は別れの儀式的表現として行われます。そして焼香後、立礼する遺族や会社役員に対し、会葬者は追悼の意を言葉や態度であらわすのです。
いずれにしろVIPが亡くなれば、会社は密葬のときから一連の葬儀に重要な役割を果たさざるをえないのです。それは経営学的に言えば、一種のリスク・マネジメントが試される機会でもあります。
社葬は故人を顕彰し告別する厳粛で形式ばった儀式ですが、VIPの死にも関わらず会社が不滅であり、またVIPの死を通して会社生まれ変わると知らしめる行事でもあります。そこでは故人の顕彰と告別に焦点が当てられますが、会社自体も威信を獲得し、象徴的な「死と再生」をとげるのです。社葬とはVIPの死に「かたち」を与えることによって、会社をよみがえらせる「産霊」の秘儀なのです。VIPの死を通して会社の再生を演じる「かたち」、それが社葬のもうひとつの重要な側面です。
儀式には「かたち」が必要です。結婚式とは、不完全な男女の魂に「かたち」を与えて完全なひとつの魂として結びつけること。葬儀とは、人間の死に「かたち」を与えて、あの世への旅立ちをスムーズに行うこと。そして、愛する者を失い、不安に触れ動く遺族の心に「かたち」を与えて、動揺を押さえ悲しみを癒すこと。このように儀式のもつ力とは、「かたち」によって発揮されるのです。
そして、会社儀礼のような集団儀礼においては「かたち」を繰り返すことが重要になります。何年も何年も同じやり方で儀式を繰り返すことは、若い人々に自分が今聞いていることは何年も前に年長者たちが聞いたことだという確信を与え、老人たちには、未来の人々が自分の知っていることを知ることになるという確信を与えるのです。これによって、集団の精神的な縦軸がまるで背骨のようにシャキッと立ちます。儀式の順序の確実さは、反応を強要することによってではなく、共通知識の生成を助けることによって権威を生み出すのです。
当社の新年進発式のスタイルは、もう三十年来続いているものです。そこで述べられる言葉は「気業宣言」や「S2M宣言」など、時代によるアレンジはあっても、メッセージの内容はまったく変わりありません。当社の経営理念は創業以来ずっと不変です。「人間尊重」という大ミッションも創業時から掲げていました。私が社長として発表したS2M宣言も従来のサンレー文化を現代風に表現したものに過ぎないのです。さらに言えば、『結魂論』『老福論』という2冊の著書も、かつて会長が上梓した『婚礼の心 葬祭の心』のコンセプトを、現代風にアレンジして二冊分にして出版したものだと私は考えています。
企業の経営理念、創業の精神、ミッションというものは、そう簡単に変えてはいけないのです。逆に言うなら、そういったものがコロコロ変わる企業など、存在理由がどこかに吹っ飛んでしまい、この世から消えてしまう運命にあるのです。
さらに第一社歌「愛の輪」や最後の「和のこえ」などは、寸分たがわず過去からのスタイルを受け継いでいます。何年も何年も繰り返されてきた「愛の輪」と「和のこえ」。この繰り返しこそが組織を一体化し組織力を高める儀式力なのです。そこで私たちはサンレーに綿々と流れてきた知識を共有するのです。
最近の人類学でも儀式の最大の目的は集団に「共通知識」を生むこととしていますが、そのための最高の方法はアイコンタクトだとされています。全員が顔を向き合わせてサークルを作り、お互いに他の人々が注意を払っていることがわかるようにすることです。内側を向き合うサークルこそは「協調」を生む魔法なのです。
アメリカ大陸にはキヴァという古代の円形遺跡が残っていますし、有名なローマのコロッセオも円形劇場です。フランス大革命における革命祭も円形が理想的であると考えられました。そして現代のアメリカとカナダの市議会も、議席はお互いに向き合うように同心円状に配置されています。すべて「アイコンタクト」の魔法を応用したものです。そう、当社の「和のこえ」もまさにこの魔法が百パーセント活用されているのです!
そして、新年祝賀会にはもうひとつの魔法が登場します。いわずとしれた音楽です。知識を共有する儀式には緊張がともないますが、その後の祝宴にはなんといっても酒と音楽が必要です。
孔子は「孔楽」を何よりも重んじ、「礼」が音楽を通して実現されると考えていました。もともと音楽というものは、人間の心をやわらげるものです。「礼」は天と人、君と臣、親と子といったように二つのものを結びつける力を持っていますが、ややもすると、形式に流れやすい。そうなると、逆に二つのものを離すことになってしまいます。もともと「礼」というものは分を尊びますので、使い方を誤ると、自然にその弊害が生じるのでしょう。「君臣の礼」といえば、君と真のあいだにけじめをつける。「親子の礼」といえば、親と子のあいだにけじめをつける。その他、夫婦でも兄弟でもみな同じことです。そうすると、一方に「礼」をすすめていった場合、とかく「忠信の薄」ということになりがちです。かえって心が離れてしまう。その弊害を消していくのが音楽なのです。
音楽は何よりもハーモニーという「和」を尊ぶものですから、二つのものを合わせる力があります。人々が集まって、一緒に音楽を奏すれば、そこにはみんなの心がひとつになる。また、過去の音楽を聞いていると、過去の人と現在の人の心がひとつになってくる。これが音楽の持つ力です。さらに「礼楽」について考えると「礼」の根本は何よりもまず天=宇宙=神を祭ることであり、天=神=宇宙と人間が交流するためのコズミック・アートが「楽」なのでしょう。 こよなく孔子を尊敬する私も「礼楽」の道に沿い、祝賀会では昨年同様にウクレレを弾きながら「空に太陽がある限り」を歌いました。歌い終わると「空に太陽・地上にサンレー!」と絶叫しました。おかげさまで各地とも大変盛り上がり、北陸では興奮のあまり失神する女性まで出る騒ぎになりました。でも、私の下手なウクレレと歌が少しでもみなさんの心に響いたのなら、社長として嬉しい限りです。このテンションでも今年も一年何とか乗り切りたいと思います。
こうして、今年のサンレーグループ新年進発式および祝賀会は無事に終了しました。あらためて思うのは、当社の儀式運営のレベルの高さです。プロなのだから当然といえば当然ですが、同業でも下手な会社は多いようです。
冠婚葬祭業者とは、象徴をあやつり、魂をコントロールする儀式のプロフェッショナルです。二十一世紀の冠婚葬祭を創造し、男女の魂を結ぶ「結魂式」、故人の魂をあの世に送る「送儀」を提供すべき当社の会社行事は日本一のレベルではないかと、私はひそかに思っています。
サンレーは日本一の「儀式力」をもった会社でありたい。そしてプロ集団としてさらなる磨きをかけていこうではありませんか!