『重助菩薩』筧次郎著(地湧社)
百姓暮らしの豊かさを追究してきた哲学者が、初めて書き下ろした異色の短編集です。
著者は昭和22年、茨城県水戸市生まれ。百姓、哲学者。 京都大学卒業後、パリ第一・第三大学で哲学・言語学を学ぶ。花園大学講師を経て、自らの思想を実践するために、昭和58年より筑波山麓で百姓暮らしを開始。
平成14年、スワラジ学園の設立に参加し、平成18年まで学園長を務め、現在は、提携組織「スワデシの会」を運営。著書に『死を超えるということ』『ことばのニルヴァーナ』『百姓暮らしの思想』『自立社会への道』ほか、共著に『百姓入門』などがあります。
本書には「重助菩薩」「動物裁判」「ゆうこく」「青い」「王の愁い」の5つの短編小説が収められています。
最初の「重助菩薩」は高度成長期以前の茨城県の農村が舞台で、主人公である重助(重やん)は耳が聞こえない聴覚障害者です。普段の重やんは気楽に畑仕事と牛のお世話などをしている30代半ばの男性です。彼の前では、家族や隣人がみな「ありのまま」の姿でいられます。それもそのはず、重やんの正体は時に邪魔に感じる「人間」ではなく、「菩薩」領域の存在だったのです。もっとも、お寺の住職以外は、誰もそれに気が付いてはいませんでしたが・・・・・・。「重助菩薩」には、住職のこんなセリフが登場します。
「人はみんな他人に勝りたいと思うて生きておる。そんだから、他人の前では無理をしていい恰好するし、陰では悪口を言ったり馬鹿にしたりする。それが諍いの元なんじゃ。しかし、耳が聞こえん、告げ口も言えん重やんの前では、みんなが見栄や体面を捨てて裸になる。みんな不思議に真心になる。悟りを開かれた仏さまは、わしたちを真心に戻してくださるが、重やんも仏さまと同じじゃろ」
世の中には、何らかの障害を持った家族がいる人も多いでしょうが、もしその人と一緒にいる時に「ありのまま」の自分でいられるようなら、その人は菩薩かもしれません。
そんな重やんは大雨の災害で命を落としてしまいます。しかし、彼は亡くなって30年以上経っても家族それぞれの中に生きているのでした。こんなふうに死後もみんなから忘れられない人生は素敵ですね。
拙著『唯葬論』(サンガ文庫)で、わたしは「死者を忘れてはならない」「人間は死者とともに生きている」と訴えました。
本書に収められている5つの短編小説には、いずれも先祖をはじめとした「死者への想い」が描かれています。その意味で5つとも唯葬論的な小説であると思いました。
挿し絵のような筑波山麓で農業を営む著者の死生観はまことに深いです。