ハートフル・ブックス 『サンデー新聞』連載 第166回

『死という最後の未来』石原慎太郎&曽野綾子著(幻冬舎)

 前回は石原慎太郎著『死者との対話』(文藝春秋)を取り上げましたが、なんと校了日に著者の石原氏が亡くなるという前代未聞の事態となりました。人の生死は神のみぞ知るとはいえ、不思議な御縁を感じました。
 その石原氏と作家の曽野綾子氏との対談本を今回取り上げたいと思います。キリスト教の信仰を生きる曽野氏と法華経を哲学とする石原氏。対極の死生観を持つ二人が「死」について赤裸々に語っており、興味は尽きません。
 「はじめに」で、石原氏は「人間80歳を超すと誰でも紛れもなく迫ってくる『死』について予感したり考えたりします。物書きのように想像力に頼って生計を立てている人間ならば、一層我々にとって最後の『未知』、最後の『未来』である『死』について考えぬ訳にはいきません」と書きだしています。
 「人間には死ぬべき時がある」では、曽野氏が以下のように発言します。
 「私は、人にはたぶん死ぬべき時があると思っているんです。当人ではなくて、周りの人間でもなくて、神様が司っていることというか。だからそれに従うほうがいいと思っています。病人が水を飲みたいと言えば飲ませてあげる、食べたいものがあれば用意してあげる、その人が望む状態を叶えてあげる、そういう自然の範囲でいいと思うんです」
 一方の石原氏は、「裕次郎が最期を迎えようとしていた時は夏が間近でしてね、病院近くの神宮のプールに若者たちが溢れているのが見えるんです。僕らふたりにとって、夏はとりわけ関わりの深い季節だったのに、遠い世界だな・・・・・・と感じた。そんなことを感じたのは初めてでした。その若者たちを眺めながら、彼らは死なんて感じたこともないだろう、明るい未来だけがあるだろう、と。けれど、それを妬ましいとか不条理とか思わなかった。ただ、弟だけが死んでいくのだなと。何とも不思議な時間でした」と述べます。
 歳はひとつ違い、家も近所で、昔からの友人という石原氏と曽野氏ですが、「人は死んだらどうなるのか」「目に見えない何か、はある」「コロナは単なる惨禍か警告か」「悲しみは人生を深くしてくれる」・・・・・・老いや死、人生について縦横無尽に語り合い、さらには老境における孤独や絶望、諦観や悲しみ、そして希望についても言及しています。
 本書は、果敢に人生を生き抜いた男女二人の「生」の備忘録であり、「死」への果たし状のように思えました。また、人生の大先輩たちの「死」をめぐる対話には大いに学びを得ることができましたし、わたしたちには、みな、「死という最後の未来」があることを改めて認識しました。最後に、故石原慎太郎氏のご冥福を心よりお祈りいたします。