ハートフル・ブックス 『サンデー新聞』連載 第54回

『乱反射』貫井徳郎著(朝日文庫)

『慟哭』で衝撃のデビューを飾った現代ミステリーの旗手による問題作です。
冒頭で、いきなり登場人物のほとんどが犯人という種明かしがされており、驚かされます。その犯人たちとは、街路樹伐採の反対運動を起こす主婦、職務怠慢なアルバイト医、救急外来の常習者、飼犬の糞を放置する定年退職者といった小市民たちでした。
彼らのエゴイズムが交錯した果てに、1人の幼児の命が奪われます。幼児の父親は新聞記者でしたが、彼が懸命に調査を続けた末にたどり着いた真相は、法では裁けない「罪」の連鎖でした。些細なエゴが積み重なった時、それらの罪は乱反射を起こして、物理的な殺人にまで発展する。その恐ろしさが描かれています。
一読して、わたしは「これはモラルハザード小説だな」と思いました。「モラルハザード」とは、もともと経済用語です。一人一人のモラルの欠如が、最後には自分自身を支えているシステム自体を崩壊させてしまうという現象を意味します。
最初はほんのひと握りの人が、「自分だけなら」的に考えて始めたこと、すなわち一人一人のモラルの欠如による行動が、しまいには自分自身を支えているシステム基盤を崩壊させてしまうというメカニズムのことです。
よく考えてみれば、昔からこのモラルハザードはそこかしこにありました。たとえば、「赤信号だけど、車が来ないから渡ってしまおう」、「ゴミの日は明日だけど、朝起きるのはつらいから前の日に捨ててしまおう」、「並んでいる列が長すぎるので、割り込みしてしまおう」など。
信号無視をして車に轢かれても本人が痛いだけですが、それを見ていた子どもが真似をするようになったらどうなるでしょうか。身勝手なゴミ出しも同じ。たった一人のモラルの欠如が、地域全体の環境を破壊することになるのです。
本書『乱反射』に登場する多くのモラルハザードの中で、最初の小さな罪がまさに不法なゴミ捨てでした。しかも、亡くなった幼児の父親がルール違反を犯したのです。本書の最終部分でそれに気づいた父親は「自分は息子を殺したのかもしれない」と思い至り、悲しみの雄叫びをあげるのでした。
ところで本書のラストには、幼児を亡くした両親が癒される感動的な場面が出てきます。もし、お子さんを亡くされた経験があり、今も悲しみに浸っておられる方がいるとしたら、ご一読をお薦めします。モラルハザード小説である本書は、同時にグリーフケア小説でもあります。