『人質の朗読会』小川洋子著(中央公論新社)
映画化もされた『博士の愛した数式』で第1回本屋大賞を受賞した著者の最新作です。非常に不思議な味わいの小説ですが、読み進むうちに静かな感動を何度も覚えました。「物語」というものの本質を描いた名作であると思います。
ページを開くと、いきなり冒頭から物語の世界に引き込まれます。地球の裏側にある国で、ツアーに参加した八人の日本人が反政府ゲリラに拉致され、人質になります。人質たちは、自分の人生の忘れがたい思い出、過去の記憶をそれぞれ一つずつ書いて、朗読し合います。八人の人質と一人の政府軍兵士による九つの物語が収められた連作短編集が本書です。
九つの物語のタイトルは、「杖」「やまびこビスケット」「B談話室」「冬眠中のヤマネ」「コンソメスープ名人」「槍投げの青年」「死んだおばあさん」「花束」「ハキリアリ」となっています。
どの物語においても、語り手がまだ幼かった頃、あるいはかなり昔の忘れ得ぬ体験や出来事が語られています。ささやかな日常生活の中のささやかな物語ばかりなのですが、どれも読者に静かな感動を与えてくれる優しい物語たちです。
語り手たちには、人生の途中でめぐり会い、心を通わせた人々がいます。物語の中で、その思い出の人々は生きています。そして、その物語を朗読する人質たちも、また物語の中で生き続けます。
じつは、八人の人質たちの命は助かりませんでした。すでに冒頭部分で、人質たち全員が死亡したことが知らされます。
彼らは、現在、この世に存在していません。当然ながら、未来はありません。 しかし、彼らには過去があります。「思い出」という名の、そして「人生」という名の過去があります。彼らは、いずれも「いつか解放される未来」ではなく、「心の中の決して損なわれない過去」に目を向け、それを他の人々に語ったのでした。
「現在」と「未来」のない人は不幸だという見方は間違っています。人はこの世界に生まれ、さまざまな人々と出会って、また、さまざまな出来事と出合って、そして死んでいきます。「散る桜 残る桜も 散る桜」というのは良寛の句ですが、人は必ず同じ道をたどっていくのです。本書に登場する人質たちは、最初から「死」という定点から現在にさかのぼって物語る人々なのです。
彼らの朗読は「祈り」であり、神聖な宗教儀式のようでもありました。それは、彼らが真に望んでいたものが、じつは犯人グループからの身柄の解放ではなく、魂の解放だったからかもしれません。