『花戦さ』を観て、慈礼を知る
映画「花戦さ」を公開初日に観た。
狂言師の野村萬斎が華道家元・初代池坊専好を演じる時代劇である。
歌舞伎役者の市川猿之助が豊臣秀吉に扮した演技も素晴らしく、佐藤浩市の千利休もなかなかだった。もう、茶道も華道も歌舞伎も狂言もみんなクロスしまくって、「日本文化ここにあり!」みたいな映画である。
初めと終わりに、専好が戦場で横たわる死者たちのために花を立てる場面が出てくる。かつて戦国の世に、武将たちは僧侶とともに茶の湯と立花の専門家を戦場に連れていった。
戦の後、死者を弔う卒塔婆が立ち、また茶や花がたてられた。茶も花も、戦場で命を落とした死者たちの魂を慰め、生き残った者たちの荒んだ心を癒やしたのである。
千利休と池坊専好は意気投合し、交流を深める。両者が互いに刺激を与え合い、学び合い、自らの道に活かしていく場面が興味深かった。
秀吉に頑なに詫びを入れぬ利休に対し、専好が「上様に詫びを入れられればいいではないですか。これも『もてなし』だと思って、包み込むように詫びを入れればいいではないですか」と言うシーンがある。
専好は、初めて利休の点てた茶を飲んだとき、何か大きな温かいものに包み込まれるような心境になったというのだ。その言葉を聞いた利休は「わたしは、いつの間にか大事なことを忘れていたのかもしれないな」とつぶやいたのが印象的だった。
「茶聖」とまで呼ばれた利休だが、名声を得るにつれ、茶道の根幹にある「もてなし」の精神を忘れてしまったのだろうか。秀吉に対する利休の態度は礼を失することはなかったが、慇懃無礼なものであり、天下人は不快に感じたことだろう。
本当は、利休は秀吉の存在そのものを包み込むような茶を点てればよかった。そして、それには秀吉に対する慈しみの心を持つ必要があった。
礼は形式主義に陥りやすいので、「慈しみによるもてなし」としての「慈礼」が大切ではないだろうか。