一条真也の人生の四季 『サンデー毎日』連載 08

バリ島の葬儀は直接芸術だった!

先週、バリ島に行ってきた。わたしが会長を務める業界団体の研修視察として、実に四半世紀ぶりに訪れた。

 観月ありさがフェラーリ王子と結婚式を挙げたばかりのブルガリ・ホテルにも行った。バリのリゾート・ウエディングはハワイやグアムよりも日本人には合っている気がする。
 いわゆる「アジアン・リゾート」として沖縄に近い感じだ。バリも沖縄も、神と人の交流が盛んなスピリチュアルな島として知られている。
 そして、バリ島といえば、なんといっても葬儀が有名である。ここでは火葬による死者の葬いが、伝統的な生活の中で人々の最大の関心事であり、愉みにさえなっている。
 バリ島の王国(ヌガラ)は「劇場国家」であるといわれる。ヌガラとは19世紀中葉にオランダが植民地化するまでバリ島に栄えたいくつかの小王国を指すが、ヌガラが特別に関心の対象となるのは、その祭儀性にある。例えば、かつてヌガラでは王が死ぬと、その葬儀は盛大を極めたが、王の遺体を納めた棺を火葬するに際しては、3人の側室が自ら焔の中へ身を投じて自決するようなスペクタクルが含まれていた。
 バリ島では何らかの祭儀の行われる日が「実」の日であり、それ以外の日常の日は「虚」であるという考え方が支配しているが、儀礼こそが、それも葬礼こそがヌガラを成立させる条件となっていた。
 バリ島で、わたしは「芸術とは何か」について考えました。芸術とは、魂を天上に飛ばすことだと思う。人は芸術作品に触れて感動したとき、魂が天上に一瞬だけ飛ぶのではないか。
 絵画、彫刻、文学、映画、演劇、舞踊といった芸術の諸ジャンルは、さまざまな中継点を経て魂を天上に導くという、いわば間接芸術である。
 ベートーヴェンは「音楽は直接芸術である」と述べたが、わたしは葬儀こそが真の直接芸術だと思う。なぜなら、葬儀とは「送魂」という行為そのものだからだ。ガムランの調べを聴きながら、そんなことを考えた。