人は老いるほど豊かになる
9月19日は「敬老の日」である。
「敬老」という考え方は、古代中国に生まれた儒教に由来する。わたしは古今東西の人物のなかで孔子を最も尊敬しており、何かあれば『論語』を読むことにしている。その『論語』には次の有名な言葉が出てくる。
「われ十五にして学に志し、三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従って矩を踰えず」
60になって人の言葉が素直に聞かれ、たとえ自分と違う意見であっても反発しない。70になると自分の思うままに自由にふるまい、それでも道を踏み外さないようになった。
ここで、孔子は「老い」を衰退ではなく、逆に人間的完成としてとらえている。ブッダは「生老病死」を苦悩としたが、孔子は大いに「老い」を肯定したのである。
孔子と並ぶ古代中国の哲人といえば老子だが、老子の「老」とは人生経験を豊かに積んだ人という意味である。また、老酒というように、長い年月をかけて練りに練ったという意味が「老」には含まれている。
世間には、いわゆる「老いの神話」というものがある。高齢者を肉体的にも精神的にも衰退し、ただ死を待つだけの存在とみなすことである。すなわち、老人とは「孤独」「無力」「依存的」「外見に魅力がない」「頭の回りが鈍い」などと見る。
しかし、物事というのは何でも見方を変えるだけで、ポジティブなイメージに読み替えることが可能だ。たとえば、高齢者は孤独なのではなく、「毅然としている」。無力なのではなく、「おだやか」。依存的なのではなく、「親しみやすい」。外見に魅力がないのではなく、「内面が深い」。そして、頭の回りが鈍いのではなく、「思慮深い」といったふうにである。
神道では、「老い」を神に近づく状態としてとらえ、その最短距離にいる人間を「翁」と呼ぶ。これこそ真の「老いの神話」ではないだろうか。人は老いるほど豊かになるのである。