一条真也の人生の四季 『サンデー毎日』連載 105

また会えるから

前回、日本におけるグリーフケアの第一人者である髙木慶子先生から「誰が亡くなっても悲しい」というお言葉を頂いたことを書いた。
先生のお考えに賛同しながらも、多くの日本人にとって「誰が亡くなっても悲しくない」という時代が訪れつつあることも感じる自分がいた。
結局は「愛」の問題かもしれない。誰かが死んで悲しくないのは、その人への愛がないからだ。世の中には肉親の葬儀さえ行わない人もいるようだが、そこに愛がないからだろう。
上智大での講義を終えた後、わたしはグリーフケア研究所の方々と遅い夕食を取った。そこでも髙木先生と意見交換させていただいたが、先生はグリーフケアの核心について「また会える、ということが大切ですよ」とおっしゃった。同感である。
亡くなった人と再会するという考え方はたくさんある。「風や光、雨、雪、星として会える」「夢で会える」「天国で会える」「生まれ変わって会える」・・・・・・。世界にはさまざまな信仰や物語があるが、いずれにしても、必ず死者と再会できるのではないか。
世界中の言語における別れの挨拶には、「また会いましょう」という再会の約束が込められている。 日本語の「じゃあね」、中国語の「再見」もそうだし、英語の「See you again」もそう。フランス語やイタリア語やドイツ語やその他の国の言葉でも同様である。
これは、どういうことだろうか。古今東西の人間たちは、愛する人との死別に直面するにあたって、再会の希望をもつことで辛さや寂しさに耐えてきたのかもしれない。
でも、こういう見方もできないか。二度と会えない別れなど存在せず、必ずまた再会できるという真理を人類は無意識のうちに知っていたと。そして世界中の別れの挨拶に再会の約束を重ねさせたのだと・・・・・・。
「また会えるから」ほど、愛する人を亡くした人にとって必要な言葉はない。これからも、グリーフケアについて考え、実践していきたい。