一条真也の人生の四季 『サンデー毎日』連載 62

『終活』ではなく『修活』と呼びたい

 いま、世の中は大変な「終活ブーム」である。多くの犠牲者を出した東日本大震災の後、老若男女を問わず、「生が永遠ではないこと」を悟り、「人生の終わり」を考える機会が増えたようだ。かくいうわたしも多くの終活セミナーや講演会に招かれ、『決定版 終活入門』(実業之日本社)という著書も上梓している。

 高まるブームの中で、気になることもある。「終活」という言葉に違和感を抱いている方が多いことである。特に「終」の字が気に入らないという方に何人もお会いした。
 もともと「終活」という言葉は就職活動を意味する「就活」をもじったもので、「終末活動」の略語だという。ならば、わたしも違和感を覚えてしまう。なぜなら、死は終わりではなく、「命には続きがある」と信じているからである。
 そこで、わたしは「終末」の代わりに「修生」、「終活」の代わりに「修活」という言葉を考案し、提唱している。「修生」とは文字通り、「人生を修める」という意味である。
 考えてみれば、「就活」も「婚活」も広い意味での「修活」ではないか。
 学生時代の自分を修めることが就活であり、独身時代の自分を修めることが婚活なのだ。そして、人生の集大成としての「修生活動」がある。
 かつての日本には死生観というものがしっかり存在していたと思う。「直葬」や「0葬」など最近の一連の薄葬化に見られるように、死者を軽んじることもなかった。自らの死に様、遺された家族の人生についても、きちんと考えていた。
 どうも、今の日本人は「修業」「修養」「修身」「修学」という言葉で象徴される「修める」という覚悟を忘れてしまったようである。
 老いない人間、死なない人間はいない。死とは、人生を卒業することであり、葬儀とは「人生の卒業式」にほかならない。
 老い支度、死に支度をして自らの人生を修める・・・・・・この覚悟が人生をアートのように美しくすると思う。