人が生き続ける歌舞伎
自民党が歴史的惨敗を喫し、都民ファーストの会が大躍進した東京都議選の翌日の夜、築地市場に近い歌舞伎座では万雷の拍手が起こっていた。
この日、市川海老蔵さんが座頭を務める「七月大歌舞伎」が初日を迎え、夜の部の通し狂言「駄右衛門花御所異聞」で長男の勸玄君と親子共演を披露したのである。4歳の勸玄君は史上最年少での宙乗りだったが、6月22日に母の小林麻央さんを亡くしてから間もない中の挑戦だった。
最愛の妻、そして最愛の母を失った父子の未来に立ち向かう雄姿に場内は割れんばかりの大歓声である。
江戸には3つの花があった。火事と喧嘩は有名だが、もう1つの花は、歌舞伎役者の市川團十郎だった。当時の江戸ッ子たちは、口々に團十郎を「江戸の花」と讃えた。海老蔵さんは十二代市川團十郎の長男であり、十三代目となる人物である。そして、勸玄君がいつの日か十四代目になるかもしれない。「江戸の花」は続く。
歌舞伎という芸能は儒教における「孝」の概念と深く関わっている。同じ名前を先祖から子孫へ襲名し、「生命の連続」が実現されるのだ。
「孝」という死生観は、生命科学におけるDNAに通じている。特に、イギリスの生物学者リチャード・ドーキンスが唱えた「利己的遺伝子」という考え方によく似ている。
生物の肉体は1つの乗り物であり、生き残り続けるために、生物の遺伝子はその乗り物を次々に乗り換えていくといった考え方である。
個体には死があるので、生殖によってコピーをつくり、次の肉体を残し、そこに乗り移る。その意味で、子は親のコピーなのである。
儒教研究の第一人者である加地伸行氏によれば、「遺体」とは「死体」という意味ではない。人間の死んだ体ではなく、文字通り「遺した体」というのが、「遺体」の本当の意味なのだ。遺体とは、自分がこの世に遺していった身体=子なのである。
勸玄君の宙乗りを観て、わたしは「人は生き続ける!」と思った。