独言 全互協会員様へのメッセージ『互助会通信』連載 109

家族葬の罪と罰

 某週刊誌が終活特集を組み、「家族葬の罪と罰」というテーマで取材を受けた。わずらわしい人間関係を避けつつ、あまりおカネをかけたくない人たちが家族葬を選んでいるという。結局、その根本にあるのは、「なるべく面倒なことは避けたい」という本音だ。
 しかし、わたしは「葬儀は、面倒だからこそ意味がある」と指摘した。人がひとりこの世からいなくなってしまうというのは大変なことだ。骨になってしまえば、生の姿を見ることは二度と出来ない。取り消しがつかないからこそ、憂いは残さないほうがいい。
 億劫という気持ちはいったん脇において、関係のあった多くの人に声をかけ、故人と最後の挨拶を交わす場所を用意してあげるべきである。選択を誤れば、最期を迎える自分自身も無念が残るし、家族にも「罪と罰」という意識だけを抱かせてしまう。
「家族葬」の本質は「密葬」である。身内だけで葬儀を済ませ、友人・知人や仕事の関係者などには案内を出さない。そんな葬儀が次第に「家族葬」と呼ばれるようになった。
 しかし、本来、ひとりの人間は家族や親族だけの所有物ではない。当然のことながら、どんな人でも、多くの人々の「縁」によって支えられている社会的存在なのである。
「密葬」には「秘密葬儀」的なニュアンスがあり、出来ることなら避けたいといった風潮があった。それが、「家族葬」という言葉を得ると、なんとなく「家族だけで故人を見送るアットホームな葬儀」といったニュアンスに一変し、身内以外の人間が会葬する機会を一気に奪ってしまった。
 家族葬をはじめとする密葬的な葬儀が進むと「無縁社会」が一層深刻化する。家族葬で他人の死に接しないことが、他人の命を軽視し、末恐ろしいことにつながらなければ良いのだが・・・。