独言 全互協会員様へのメッセージ『互助会通信』連載 116

死生観の「かたち」

 京都大学で、「日本人と死生観」と題するシンポジウムが開催された。京大の名誉教授や教授とともに出演した。
 死生観の「かたち」としての葬送儀礼は、日本では、家族葬・直葬に代表されるように「薄葬」化している。さらには遺灰を火葬場に捨ててくる「0葬」まで注目されている。
 そこでわたしは、「永遠葬」を打ち出した。「人は永遠に供養される」という意味だ。亡くなって半世紀も経過すれば、死者の霊魂は宇宙へ還り、人間に代わって仏が供養してくれるという。「弔い上げ」を境に、供養する主体は人間から仏へと移るものの、供養そのものは永遠に続くのだ。
 有限の存在である「人」は無限のエネルギーとしての「仏」に転換されるが、これが「成仏」の本質である。あとは「エネルギー保存の法則」に従って、永久に存在し続ける。
 人は葬儀によって永遠に生きられる。つまり、葬儀は、「死」のセレモニーではなく「不死」のセレモニーなのだ。
 日本人の他界観を大きく分類すると、山・海・星・月となり、それぞれに対応した「かたち」が、樹木葬・海洋葬・宇宙葬・月面葬だ。その中でも、字の如く月で行う月面葬がこれから注目されるように思う。
 月は死者の霊魂が赴く死後の世界だとされ、多くの民族の神話と儀礼において、死もしくは魂の再生と関わっている。規則的に満ち欠けを繰り返す月は、世界中で死と再生のシンボルとされたのだ。
 ところで、2025年には、大阪万博が開催される予定である。高度成長の只中に行われた1970年の大阪万博は「人類の進歩と調和」がテーマであったが、25年の万博は「老いと死」がテーマだという。前回のモニュメントは生のシンボルとしての「太陽の塔」であった。ならば、今回のそれは「月の塔」となるべきではないだろうか。