平成中村座に「孝」を見た
歌舞伎の「平成中村座小倉城公演」を鑑賞した。小倉城天守閣再建60周年に当たる本年を彩る記念事業にして、博多座20周年特別公演である。まるで、江戸の芝居小屋にタイムトリップしたような時空を超えるエンターテインメントを堪能した。
平成中村座は歌舞伎役者の十八世中村勘三郎(初演時は五代目中村勘九郎)と演出家の串田和美らが中心となって誕生した。浅草・隅田公園内に江戸時代の芝居小屋を模した仮設劇場を設営して「平成中村座」と命名し、2000年11月に歌舞伎「隅田川続俤 法界坊」を上演したのが始まりである。
翌年以降も、会場はその時によって異なるものの、ほぼ毎年「平成中村座」を冠した公演が行われていたが、座主の十八世中村勘三郎が2012年12月に亡くなったため、2013年は公演を行わなかった。
しかし、勘三郎の遺志を継いだ長男の六代目中村勘九郎が座主を引き継ぎ、2014年に実弟の二代目中村七之助、二代目中村獅童と共に米ニューヨークで平成中村座復活公演を行い、見事成功させた。
わたしには息子がいないが、二人の息子たちが志を継いでくれた十八世中村勘三郎は本当に幸せな人だと思う。また、父の遺志を継いだ二人の息子たちも立派の一言に尽きる。
もともと、わたしは歌舞伎とは「孝」の芸術であると思っていた。現在生きているわたしたちが自らの生命の糸をたぐっていくと、はるかな過去にも未来にもつながる。祖先も子孫も含め、みなと一緒に生きているわけである。わたしたちは個体としての生物ではなく一つの生命として、過去も現在も未来も、生を共有しているのだ。これが儒教のいう「孝」であり、DNAにも通じる「生命の連続」を自覚するということである。
儒教研究の第一人者である加地伸行氏によれば、「遺体」とは「死体」という意味ではない。人間の死んだ体ではなく、文字通り「遺した体」というのが、「遺体」の本当の意味である。つまり遺体とは、自分がこの世に遺していった身体、すなわち「子」なのだ。
あなたは、あなたの祖先の遺体であり、ご両親の遺体なのである。あなたが、いま生きているということは、祖先やご両親の生命も一緒に生きているとうことだ。孔子は「孝」という思想によって「人は死なない」ということを宣言したわけだが、その神髄を歌舞伎に見た思いがした。平成中村座の舞台には、十八世中村勘三郎の遺体が二体並んでいるのである。
九州初上陸となった平成中村座だが、こんなに心から楽しめた舞台は他にない。なんだか癖になりそうである。